第24章: デヘラ・ドゥン、1953年
1953年· ババ 59歳ページ 3,346 / 5,444
知るべきことは何もありません。すべては忘れるためにあります。理解できるものは何であれ、幻影です。最高の理解も最低の理解も、ともに幻影です。理解できないものこそが実在です。私たちは、本来の私たちそのものです。かつての私たちが今の私たちであり、今の私たちがこれからの私たちです。これを理解できなくても、大した問題ではありません。理解すべきものはすべて『幻影』ですが、理解できないものを理解すれば、私たちが過去にも、現在にも、そしてこれからも存在しているということが分かるでしょう。あなたはその意識を得なければなりません。
要するに、私たちには何の変化もなかったし、これからも何の変化もありません。唯一の違いは、私たちが本来の自分自身——無限なる神であり一者であること——に気づいていないと知ることにあります。私たちは自分自身を、別個の存在として違うふうに理解しはじめました。この分離しているという思いは、幻影に他なりません。驚くべきことは、私たちは無限なる神と一つであったのに、今日では自分たちをその方から分かれた存在と見なしているということです。私たちは個別性の観点から考えはじめました——私は病気だ、私は幸せだ、というふうにです。そのような理解は捨て去らねばなりません。
クマールはこらえきれずに口を挟んだ。「バーバー、あなたが説明してくださったことは何一つ理解できませんし、特に理解したいとも思いません。」
バーバーは答えた。
あなたが気にしようとしまいと、あなたの子供たち、妻、そしてこの体そのものさえ、あなたにとっての縛りとなります。実在においては絶え間ない至福以外には何もありませんが、今のあなたにはそれが何であるか想像もつきません。私たちは無限に力強いものです。ひとたびその意識を得れば、あなたは全宇宙を作ることも壊すこともでき、思いのままに全宇宙を幸せにすることも惨めにすることもできます。スーフィズムでは、人間にとっての最高の至福は、その本源的至福の七番目の影に過ぎないと言われます。
あなたが気にしようとしまいと、この理解は徐々に訪れねばなりません。私たちが知っていることは何であれ、幻影です。私たちが今語っていることもまた、幻影です。真の理解は、訪れるときには瞬く間に訪れます。なぜなら、私たちはあらゆる滴が存在する神性の大海そのものだからです。滴が見かけ上、泡となって形を成すとき、それらは異なる状態を経験するのです。波はそれらの泡を破ることはできません。しかしひとたび破られれば、瞬時に大海そのものとなるのです!これらの『泡』に、自分たちは泡ではなく大海であると説明しても、破れない限り理解しないでしょう。泡に説明しようと努力すればするほど、幻影はますます増大するのです。ですから、説明する必要などどこにあるでしょうか?泡たちを目覚めさせるには、それらを破らねばなりません。
