第21章: マノナッシュ
1951年· ババ 57歳ページ 2,997 / 5,444
ある導師たちは、心(こころ)そのものを通して、すなわち瞑想と集中を通して心(こころ)を破壊する道を示しました。心(こころ)が集中すると、それ以後の働きは弱まり、印象は自らを消し去ります。印象は虫のようなもので、自らを使い尽くすからです。しかし、この瞑想と集中の過程は、マノナシュ[心の消滅]をほとんど不可能にします。なぜなら、心(こころ)には印象を実行させて[費やさせて]しまう習性があるからです。心(こころ)が挫折を感じると、いっそう必死になります。あなたが瞑想のために座った瞬間、時には以前考えたこともない思いが浮かび、結局、次の三つのうち一つが起こります。第一に、集中できず嫌になります。第二に、眠くなったり夢見心地になったりします。第三に、さらに悪い思いが心(こころ)に入り、試みを諦めなければならなくなります。しかし、あなたに勇敢な胸があり、忍耐強く続けるなら、ごくまれな場合に、心(こころ)は一時的に静まります。
すると、その結果として二つのうち一つが起こります。人は恍惚状態かサマーディ[三昧]に入ります。このハール[恍惚状態]とサマーディ[三昧]は、マノナシュ[心の消滅]ではありません。サマーディ[三昧]は、場合によっては職業になります。そして恍惚状態は麻薬のようになり、人はそれに中毒します。人は恍惚状態を楽しみますが、それは一時的なものです。サマーディ[三昧]に入り、通常の意識へ降りてくる時、最初の思いがサマーディ[三昧]に入る時に抱いていたのと同じ思いである、という例がありました。したがって、もしサマーディ[三昧]に入る前に金銭のことを考えていたなら、そこから出てくる時にも同じ金銭の思いを抱くのです。
ある導師たちは、最善の道は自分を忘れ、心(こころ)に新しい印象を持つ機会を与えないことだと考えました。問題は、いかにして自分を忘れるか、ということです。答えは、バクティ・ヨーガ[献身の道]を通して、です。人が一〇〇パーセント献身すると、その人は自分を忘れます。しかしこれもまた実際には不可能です。なぜなら、そのような献身と自己忘却は継続していなければならないからです。
ハーフィズはこう言いました。
愛しいお方の臨在を望むなら、
愛しいお方を憶念することから離れてはならない。
あなたは一瞬たりとも、この献身、この自己忘却なしにいてはなりませんが、それはほとんど不可能なことです。これが献身の道、すなわちバクティ・マルグ[献身の道]です。したがって、ある導師はこう言いました。「師と共にある一瞬は、百年の真摯な信心にまさる。」1
ある導師たちは、心(こころ)を殺すには、その方向を転じなければならないと考えました。心(こころ)はエゴに「私は身体です」と言わせます。ですから、心(こころ)に「私は身体ではありません。私はこれではありません。私はあれではありません。私は神です」と言わせなさい。これもまたほとんど不可能です。なぜなら、心(こころ)には偽りの印象があり、この偽りの心(こころ)に、自分が偽りだと感じることを言わせるのは、偽善的な行為のようなものだからです。したがって、たとえば、心(こころ)は自分が「誰それ氏」であることを知っています。さて、この人の心(こころ)が「私は人間ではなく、私は神です」と言うなら、まさにその瞬間、心(こころ)は自分が嘘をついていると感じます。その結果、これは胸、感情、そして愛を疲れさせます。心(こころ)は「私は神です。何のために行為する必要がありますか」と言うので、行為なき行為をすることができません。心(こころ)は「私は神です。誰に祈るのでしょうか」と言うので、献身の中で自分を忘れることができません。
脚注
- 1.別の機会にバーバーがこの引用を挙げた時、彼は「信心」の代わりに「祈り」と言い、「百年の祈り」と述べた。
