第40章: 再び泣く時代
1967年· ババ 73歳ページ 5,300 / 5,444
バーバーはまた、ウッタル・プラデーシュの他の二か所の「メヘル・メラ」にもチャガンを派遣した。一つはバグダ、もう一つはカンダルカで開かれ、その後さらにバーバーはご自身の誕生日祝いのため彼をカンプルへ送った。チャガンが出発する前は毎回、バーバーは彼をメヘラザードへ呼び、バウが用意したヒンディー語の演説を読み上げさせた。チャガンは男女両方のマンダリの前で、ホールでそれらを読んだ。それはバーバーには気晴らしであったが、バウにとってはもう一つ増えた務めであった。彼は夜の当番をこなし、ヒンディー語の通信業務を担い、昼間はバーバーのそばに居て、サロシュとアマル・シン・サイガル、さらにチャガンのための演説を書かねばならず、その上で他の執筆作業もしなければならなかった。
11月中旬のある日、バーバーはバウにガザルを書くよう求めた。バウは答えた。「バーバー、ヒンディー語でガザルを書くことはできません。ガザルはウルドゥー語かペルシア語でしか書けません。」
バーバーはこう言われた。「あなたは私を何だと思っているのですか? 私はウスタード[師]です! 私はガニーにガザルの書き方を教えましたし、あなたにも教えます。しかしまずは、やってみなさい。」
そこでバウは試みに、ガザル形式で200曲近くの歌を書いた(これらは後に『メヘル・ギーティカ』として印刷された)。
バーバーはそれらを気に入ったが、こう述べた。「これらは歌であって、ガザルではありません。来年の夏、私たちがグルプラサードにいるときに教えてあげましょう。」
その間にバーバーは、ドンの『旅人たち (The Wayfarers)』をヒンディー語に翻訳するようバウに命じ、バウはこの作業に取りかかった。
実はバーバーは7年前の1960年に、二編のガザルをヒンディー語でバウに口述し、彼がガザルを書くための道を既に開いていたのだが、当時バウは、バーバーがいずれ自分にそれらを作るよう求めるとは夢にも思わなかった。
フランシス・ブラバゾンもまた、バーバーのために英語で詩やガザルを書き続けていた。
新しい朗誦が終わるたびに、バーバーは喜びにあふれて顔を輝かせ、時にはフランシスを褒めてこう言われた。「これはあなたが今までに作った中で最も素晴らしいものです。今回はあなた自身を超えましたね!」
1967年11月26日日曜日、ガジワニは事前の手はずどおり、ジャイプリ・カワールをボンベイからメヘラザードへ連れて来た。しかし今回は、アフマドナガルから出席するよう呼ばれたのはアディ、ルストム・カカ、ダケのようなごく少数のみであった。カワールは午前9時30分から午後2時まで、間に1時間の休憩を挟みながら美しいガザルを歌った。バーバーは彼の演奏を大いに楽しみ、カワールが以前にも増してよく歌ったと述べた。
二日後の28日、バーバーは間近に迫った誕生日のプログラムについての会合のため、アディ、サロシュ、ヴィルー、ルストム・カカ、ランゴーレ、バギラート、ワマンを呼び寄せた。
