第39章: ドラッグ禁止
1966年· ババ 72歳ページ 5,235 / 5,444
その間、ハリー・ケンモアは6月4日にグルプラサードへ到着し、11日の午後に発つまで毎日訪問することが許された。ハリーはバーバーのために、アメリカからはるばるクッション張りのリクライニングチェアを運んできていた。残念ながら、その椅子は輸送中に誤って取り扱われ、ベイルートで荷下ろしされてしまった。それでも最終的に椅子はプネーに到着し、バーバーはハリーの心遣いを喜ばれた。
ハリーはテープレコーダーも持参しており、サタラのラムジューを訪ね、バーバーとの初期の接触に関する彼の思い出を録音するつもりだった。しかし、バーバーはハリーをそこへは送らなかった。
ケンモアの滞在中の6月7日、ハリーがニューヨークでバーバーの御名を広める働きをしていることを話していた時、バーバーは彼に毎年ニューヨーク市で公開記念行事を二つ開くよう指示した——一つはバーバーの誕生日を祝うもの、もう一つは沈黙の日のためのものである。
バーバーはまた、ハミルプルからケシャヴ・ニガムとプカールを呼び寄せ、そこで自分の名のもとに行われた働きについて話を聞いた。彼らは一日ほど滞在し、バーバーの指示を受けて去って行った。
1966年6月5日日曜日の朝、ベヘラムの家族がジェハングとグルナールの娘メヘルナーズのナヴジョット[ゾロアスター教の入信儀礼]の式典のためにグルプラサードへ来た。その子のサドラ[聖なる衣]、クスティ[聖なる紐]、帽子、新しい服が、バーバーの前のスチール製の盆に並べられた。バーバーは彼女にサドラとクスティを渡し、さらに自分のメッセージ(6年前にジム・ミストリーの息子たちのナヴジョット式典で与えられたものと同じもの)が記された一枚の紙を手渡した。それはシャリアット[宗教的伝統]の余分な束縛から自由であることに関するものだった。それはエルチによって読み上げられ、続いてメヘルナーズが「導師の祈り」を唱えて女性側へ行き、そこでメヘラがサドラとクスティを着せた。
書簡への応対は、グルプラサードでの日課の一部であった。通信禁止令にもかかわらず、手紙や電報は定期的に届き、年々その数を増していった。エルチとマニはインドおよび欧米との英語の通信を担当し、バウはインド国内のヒンディー語の通信を扱った。アディはアーンドラからの通信および米国とヨーロッパの一部の通信を担当し、アロバはイランのラヴァー[愛者]たちに関するペルシア語の通信に答えていた。ペンドゥはグルプラサードの管理者であり、バウとラノとともに夜間の警備も分担していた。
