トムは次に何が起こったかを語っている。「(バーバーの)愛の美しさがあの瞬間、私のハートにあまりに独自に存在していたので、分離した個性としての私は存在しなくなり、その瞬間、自分が激しく叫ぶのが聞こえた。『おお、神よ!』私は彼の前に身を投げ出し、頭を彼の足に押しつけた。」
それはほぼ二度目も起こりかけた。他の西洋人が来ていた朝の集会の時であった。バーバーは述べた。「私が提供するこの愛に匹敵するものは何もない。それはすべてを賭ける覚悟のある者だけのものである。これに妥協はあり得ない。」
トムは回想した。「(バーバーが)言っていたことは、数日前にグルプラサードのマンダリー・ホールで彼が私に明かしたことと、とても明確に関連していた。心臓の鼓動が速まった。彼が私の中にいるのを感じた。彼の愛がすべての表面的で余分なものを押し出していた。その瞬間、叫び出してこの愛の臨在の強さを表現する必要をとても強く感じた。その瞬間、彼の話を聞き彼を見つめている300人の只中で、しかしこの人々の誰にも知られることなく、彼は厳しい目で私の目を捉え、私の心の中でこう鮮明に言った。『愛を見せびらかすな!』」
トム・ライリーの後、ロンドンのフレッド・マークスと同じイギリス人が二番目と三番目にプーナに到着した。アメリカのブリナー(ジミー)・メールとイニッド・コーフ、ロンドンのデリア・デレオンが次に到着した。アメリカから約100人、オーストラリアから33人、ヨーロッパから17人、イスラエルからはキャリー・ベン・シャマイのみ、パキスタンから50人、イランから4人が来ていた。加えて、インド各地からほぼ3,500人、プーナ、アフマドナガル、ボンベイから1,500人がいた。数度の延期の後、待望の東西集会がまさに行われようとしていた。
ブリナー・メール(25歳)は1956年8月にロサンゼルスで初めてメヘル・バーバーのことを聞いた。ダンスの指導者から偶然『神は語る』の一冊を手にした時であった。ブリナーがさらに情報を求めると、彼の教師は別の生徒ジョイス・ロムニーを紹介した。ブリナーの関心に驚いて、ジョイスは叫んだ。「ちょうどバーバーを逃したところよ!一昨日ロサンゼルスを去ったのよ。」ジョイスはマルコム・シュロスの知人であり、教師と共にルーズヴェルト・ホテルでバーバーに会っていた。彼女はメールにスーフィズムについて話し、メールは最終的にサンフランシスコに行ってアイヴィー・デュースの下でスーフィーとなった。彼は1958年にマートルビーチに来る資金がなく、それ以来バーバーに会うことを切望していた。
