第36章: 無関心であることに関心を持つ
1962年· ババ 68歳ページ 4,789 / 5,444
彼らはホールの前の木の下に屋外で座った。フランシス・ブラバゾンはバーバーのために歌を作り続けており、毎日新しい一曲を歌っていた。バーバーは、ご自分が太鼓で伴奏できるように、フランシスに自作の歌のうちの一つを歌うよう勧められた。(「フランシスはまるで天が頭上に降って来たかのような顔をしていた!」)しばらく内心で逡巡したのち、フランシスは歌い出し、その間バーバーは太鼓を叩かれた。ドン・スティーブンスはいくつもの角度からショットを撮り、撮影を続けた。バーバーはドンに、フランシスの二十五曲入り歌集『我ら、人民よ、歌わん』を百部購入するよう指示された。これはメヘルジーの工場「ホワイト・クラウド」の紙に印刷されているところだった。1
見たところ、バーバーは撮影に少し気を悪くされているようだったが、ドン・スティーブンスは「バーバー、残りの数日間、いつでもどこでも撮影を続けてよいとおっしゃってくださいました」と申し上げた。またしても、リールがちょうど終わるその瞬間、バーバーはスティーブンスにもう十分撮ったと合図された。
バーバーはのちに、カリとジョセフ・ハーブのプーナでの滞在継続についてドン・スティーブンスと相談された。スティーブンスとフランシスは、ジョセフの体調が思わしくないことから悲観的だった。エルチだけがうまくいくかもしれないと考えていた。
一九六二年二月二十二日木曜日の朝、バーバーはアディ、エルチ、マニ、フランシス、ドン・スティーブンスとともに『神は語る』の新版についてホールで会議を開かれた。表紙にバーバーの写真は載せず、本文も変えず、ドッド・ミード社との関係はこれまで通り維持することで合意した。
その後、午前十時にハーブ夫妻がメヘルジーとともに新車のシボレーで到着した。二時間にわたり、バーバーは彼らとともにインドに留まることの利害について議論された。ジョセフは自分はやっていけるし、すでに無理なく順応してきたと感じていた。カリは病気がちだったため自分の力に確信が持てなかったが、状況をこう要約した。「私はほかのどこかで死ぬよりも、インドで死にたいのです!」
アディとフランシスはともに、ハーブ夫妻はアメリカに戻るべきだと感じていた。ドン・スティーブンスは、少なくとも当面ジョセフの気持ちは変えようがないほど固まっており、カリは決して彼のもとを離れないだろう、と述べた。結局、バーバーはカリにもう一週間考える時間を与え、その後最終的な決定を手紙で知らせるようにと言われた。
昼食後、ジョセフ・ハーブはかなり具合が悪かったが、午後四時にはバーバーが戻られた際に明るく振る舞えるほどに回復した。ドン・スティーブンスが緊張した手つきでバーバーの腕を支える中、写真が撮られた。その後、バーバーはその日に発つスティーブンスに別れを告げるため、皆を五分間外に出された。
脚注
- 1.メヘルジー・カルカリアはプーナにフィルター紙の工場を所有しており、フランシスはそこを「ホワイト・クラウド」と名付けた。のちにメヘルワン・ジェサワラがパートナーとなり、長年その工場で働いた。
