第35章: グルプラサド、1960年
1959年· ババ 65歳ページ 4,589 / 5,444
バーバーは椅子の上で身を起こして尋ねた。「彼は何と言いましたか?」
エルチが彼の言葉を伝えた。数分後、ケンモアがホールに入ってくると、バーバーは次のような談話を行った。
実在においては、ただ一つだけが在ります。幻影においては多くがあります。神が一であるか多であるかについてこれほどの混乱があるのは、神があまりにも無限に一であるからです。
「一なる神が在る」と言うことすら誤りです。神は無限に一であって、一と呼ぶことすらできません。ただこう言えるのみです。「一は在る。」「神」という言葉は、その「一」に名を与えようとする試みに過ぎません。実際には彼に名はないのです。「神は一である」と言うことすら、二の可能性が在ることを含意します。多くの神々が在ると言うのは狂気です。
神とは無数の役を演じている、その「一」です。例えば、エルチは目を閉じて座り、想像の中で無数のものを創り出し、それらを想像するというまさにその行為によって、それらを保ち続けます。次に彼が目を開けると、そうすることで彼の想像が創り出して保ち続けてきた全てのものを破壊します。こうして、同一のエルチが創造者、維持者、解消者という異なる役を演じたのです。
また、ハリーが眠っていて深い眠りの中にいる時 ― それは神の本来の状態です ― 人々はハリーが眠っていると言います。しかし、深い眠りの中のハリーはハリーですらありません。つまり、彼は自身をハリーとして意識してはいません。同じ一人のハリーが目覚めると、人々は「ハリーは目覚めている」と言い、同じ一人のハリーが歯を磨くと、人々は「ハリーが歯を磨いている」と言います。同じ一人のハリーが歩き、駆け回り、話し、歌うなどしていると見られ、理解されます。同じ一人のハリーは、単に異なる役を演じているに過ぎません。実際には、ハリーは一以上ではあり得ません。なぜならハリーはただ一人だけだからです。
結局のところ私たちが言えるのは、「神は在る」または「一は在る」ということだけです。
存在するものは二つあります。一と多です。一を私たちは神と呼び、多を私たちは幻影と呼びます。なぜでしょうか?なぜなら実在においては、ただ一だけが在るからです。この一を「一」と呼ぶことすら正しくありません ― 一は在るのです。
バーバーは付け加えた。「皆が神、すなわちバーバーにこう祈るのが最善です。『おお、バーバー!一でしかありえないあなた、私をあなたと一にしてください。』」
