第32章: 1958年メヘラバード・サハヴァス
1958年· ババ 64歳ページ 4,350 / 5,444
グルプラサードに滞在している間、さまざまなボンベイの映画会社の著名人たちがバーバーのダルシャンを受けにやって来た。1ある日、バーバーは彼らのうちの一団にこう説明された。
良きにつけ悪しきにつけ、映画の世界はいわゆる現実と呼ばれるより大きな世界の中で広範に成長してまいりました。しかし映画の世界は「現実」の世界と無縁なものではありません。両者は実に密接に結びついており、本質的には同じ布から織り出されていると見ることができます。ある意味では誰もが役者であり、世界は詩人や哲学者たちによってしばしば舞台にたとえられてまいりました。実際、現代の生活において「行動」とされているものの多くは「演技」としか呼びようがありません。それゆえ、より大きな世界が映画の世界だけを模倣的だと見なす根拠はほとんどないのです。
映画の世界において、役者は目の前に示された型に従って考え、感じ、行動しなければなりません。すなわち、たとえ一時的であっても、自らが演じる人物の人格を映し出すのです。このことは、映画の世界の外側にいる人々にも相当な程度当てはまると言えます。彼らは、たとえ内面の個性的な表現が抑えつけられようとも、自分に期待されていると想像する慣習的な生き方の型に従おうと努めているのです。これは比喩的な意味だけでなく、文字通りの意味においてもそうなのです。鏡を見るとき、人は往々にして自分自身の目を通すよりも、他者の目を通して自らを見ております。鏡に映る姿は、他者にどのような印象を与えるか、また他者が自分に何を期待しているかを心の中に呼び起こします――そして大多数の人にできる最善のことは、自らが演じる役柄にふさわしく見えるよう努めることに過ぎないのです。こうして鏡は、文字通りの意味でも比喩的な意味でも、現代生活においてほとんど不可欠と思われる要素となり、私たちはこの時代をほとんど「鏡の文明」と名付けてもよいほどであります。
役者が王の役を演じるとき、彼はそれが幻影であると知っております。それゆえ、ある意味では、必ずしも幻影を意識しているとは限らない外の世界の王よりも有利な立場にあるのです。とはいえ、両者とも実在を見いだせないという点においては等しく無力なのであります。皇帝や改革者の役を演じる役者を偽善者だと非難する人はおりません。彼は本来の自分とは異なる姿に見えはしますが、観客は彼が一つの役を演じていると承知しているがゆえに、その誠実さは当然のものとして受け入れられているからです。しかし舞台やスクリーンの世界の外には、現実の生活において、自分が本当はどのような者であるかを表に出さない人々が大勢おります。前者は自らが造り出したスクリーンの上におり、後者は自らが造り出したスクリーンの背後におります。
脚注
- 1.ボンベイはインドの「映画の都」であり、ハリウッドのような存在である。
