第31章: インドの大地に流れた血
1958年· ババ 64歳ページ 4,236 / 5,444
1958年1月1日水曜日、バーバーは新年のためにジャレビを配り、女性たちにアールティを歌わせた。彼はまた、メヘラバードからペンドゥ、パドリ、ヴィシュヌ、ドンを、アフマドナガルからアディ、フェラム、ダケ、バル・ナトゥ、デーシュムクを呼び寄せた。午前10時、カイコバードはバーバーの指示通りに祈りを捧げ、バーバーはその場にいた男性一人ひとりの足元に頭を置いた。来るべきサハヴァスについて様々な詳細を話し合った後、呼ばれてきた者たちはメヘラザードを後にした。
前年の9月、バーバーの弟アディ・ジュニアの妻フラニー・イラニが女の子を出産し、彼らはその子をシリーンと名付けていた。フラニーは赤ちゃんをロンドンからインドへ連れてきて、4日にバーバーに見せるためメヘラザードを訪れた。彼はその幼子を膝の上に乗せ、一緒に遊び、口づけをした。
全国大会であるランジ・トロフィー・クリケットの試合が1月7日から9日までアフマドナガルのワディア・パークで行われ、バーバーは最初の2日間、各チームの試合を見に行った。彼はスタジアムを見下ろすジッラ・パリシャド(市議会)の建物の2階から初日の試合のほとんどを観ることができたが、翌日には地区警察署長が観客ラウンジで彼を見つけ、会いに行った。群衆が集まり、バーバーはクリケットの試合を落ち着いて楽しむことができなかったため、早めに帰ることにした。帰る前に、バーバーはアフマドナガル地区クリケット協会の書記ナゲシュ・ダヴレに100ルピーの寄付を手渡した。1
東西から書簡が殺到するなか、サハヴァスのための作業はいまや全速力で進められていた。バーバーの脚と腰は依然として痛み、時折けいれんも起こっていたが、アディ・シニアが日記に記したように、「バーバーは痛みや不快感に関係なく、たゆまず仕事を続け、書簡を聞き指示を出すためにずっと座り続けている」のだった。アディとフェラムは事務所で問い合わせに応対し、バーバーの意向を伝えるのに絶えず忙殺されていた。そのうえアディは、サハヴァスへの訪問についてゴーダヴリ・マイにメッセージを伝えるため、何度かサコリへ出向いた。メヘラザードでは、マニが西洋から届いた手紙に返信していた。エルチとバウは東洋から届いた手紙に返信した。(エルチは英語の手紙に、バウはヒンディー語の手紙に答えた。)近頃、郵便物の量は劇的に増加していた。
この頃バーバーに手紙を書いた者の一人に、デラ・ドゥン出身の映画製作者プラカシュ・チャブラがいた。チャブラはサハヴァスでバーバーを撮影したいと望んでおり、そのためにこの件についてソラブジ・シガンポリアに連絡を取っていた。シガンポリアもまた、チャブラの願いを聞き入れてほしいと求める手紙をバーバーに書いていた。バーバーはこれを承諾し、1月20日、バーバーは映画のためのメッセージを口述した。
脚注
- 1.8日、バーバーはその地のあるマストを見かけ、彼を車に乗せて数時間メヘラザードへ連れて行った。
