第26章: 驚くべき3週間
1954年· ババ 60歳ページ 3,582 / 5,444
人はまるで自分が皇帝にでもなったかのように、何でもできるかのように感じますが、それが終わるやいなや、人生のストレスと緊張が再び始まります。
ニルヴィカルパ・サマーディ——スーフィーが「ファナ」と呼ぶこの状態は、自我性から去って神との合一に至ることを意味しますが、そこにおいて魂は自らを神と同一視します。このサマーディこそが、真のサマーディです。ここにおいて、人は神に成ります。神の知識が彼の知識であり、神の至福が彼の至福であり、神の力が彼の力であり、神の美が彼の美なのです!このサマーディの間、彼には身体・エネルギー・マインド・宇宙への意識はなく、ただ神としての大我のみを意識します。このニルヴィカルパ・サマーディを得る者は、ごく、ごく僅かです。
幾度もの輪廻の循環を経た末に、ようやくファナを得ると言われております。これは「ファナー・フィッラー」と呼ばれ、神と一つにならされた者という意味です。そのような者のうち、通常の意識を取り戻す者はごく僅かです。しかし通常の意識を取り戻されたお方は、サハジ・サマーディを得ておられます。サハジ・サマーディとは、宇宙を完全に意識しながら作用するニルヴィカルパ・サマーディなのです。そのようなお方は、食べるときも、語るときも、動き回るときも、遊ぶときも、何をなさるときも、つねにニルヴィカルパ・サマーディを享受しておられます。そのお方はクトゥブと呼ばれます。これはペルシア語で万物の中心——軸——を意味し、我々が完全なる導師と呼ぶ存在のことです。その人は今や蟻の次元においてさえ神と一つでありながら、あらゆる意識の境地におり、同時に粗大界・精妙界・精神界において働いています。そのお方は一切のものの上にいらっしゃいます。
サハジ・サマーディとは、努力を要しない一体性を意味します。それは手を動かしたり、まばたきをしたりするのと同じくらい単純なことです。
明日、もしあなた方が思い出させてくださるなら——お約束はいたしませんが——私を思いながらも、世間でなすべきことすべてをいかに行えるかをお話しいたします。これはサハジ・サマーディではなく、サハジ・ディヤーナ[自然な瞑想]です。食事中も、飲んでいるときも、仕事をしているときも、映画を見ているときも、ご自身の用事をなさっているときでも、あなた方はなおバーバーが共にいると感じるはずです。これがサハジ・ディヤーナです。
明日、インドの音盤をかけるときに、もし気分が良ければ、多くのことをお話しするつもりです。今日は沈黙を保ちつつ、同時に英語の録音を少し聴くといたしましょう。私は音楽が大変好きですが、近ごろは聴く時間がありませんでした。女性たち[女性のマンダリ]が、私にこれらの音盤を持って来させたのです。音盤がかかっているあいだは、心においてこの部屋にいらしてください。よそに行かれぬように。カビールはこう言いました——「いかなる音楽も、あの『言葉』の七番目の影である」と。『神は語る』の中で、私はこのことを取り扱っております。私が沈黙を破るやいなや、その最初の『言葉』があなた方の胸を震わせるでしょう。」
