第25章: ハミルプールとアンドラでの大規模ダルシャン
1954年· ババ 60歳ページ 3,523 / 5,444
ファナとは神となることを意味し、バカとは神の生命の中に留まることを意味します。ファナにおいて人はマジュブ、すなわちブラフミー・ブートとなり、それは神性の中に沈み込むことを意味します。
第一の旅[ファナ]の終わりにおいて、巡礼者は超意識のみを持ちます。つまり、「私は神である」ということだけを意識するのです。バカ[第二の旅]においては、通常の意識[粗大・精妙・精神]を取り戻します。彼はジヴァンムクタと呼ばれ、あるいはスーフィーが言うようにサリクと呼ばれます。彼は今や神であり、同時に人間でもあります。彼は自らの神性を絶えず連続的に経験し、同時に自らの人間性も経験します。しかしまだ彼は神の生命を生きてはいません。彼は絶えず経験している無限の知識、力、至福を、他者の救済のために用いることができません。
第三の旅はごくごくわずかな稀有な者のためのものであり、クトゥビヤト、すなわちサッドグルの状態で終わります。ここにおいて、悟りを得た者は今や神の生命を生きるのです。彼は自らが絶えず経験している無限の知識、力、至福を用います。彼は「一なるもの」を「多なるもの」の中へと「降ろした」のです。彼は独立した実在を幻影の中へと降ろしたのです。
第四の旅はクトゥブが肉体を捨てることで終わりますが、それでも彼は永遠に、意識的かつ個別的に神であり続けるのです。
さらに説明を続けて、バーバーはこう言葉を継いだ。
もう一点付け加えておきます。アバター[ラスール、預言者]とサッドグル(クトゥブ、完全なる導師)との違いは、クトゥブが進化、輪廻、悟りの全過程を経た上で、神の生命に「入り」これを生きるのに対し、アバターは進化の過程をまったく経る必要がないという点にあります。彼は直接的に人と「なる」のです。
神の生命を生きるという点においては、サッドグルとアバターは等しい存在です。両者はともに神の生命を営みつつ、同時に幻影の中の生のあらゆる水準に存在しています。同時に、彼らは最下層から最上層に至るまでの水準に存在しているのです。最も重要な違いは、クトゥブはその水準において行為するのに対し、アバターはそのものとなる、という点です。神であるクトゥブもしくはサッドグルが、告白者の水準にまで降りて神に告白するとしましょう。これは神が(サッドグルという人間の姿において)告白者として神に告白する行為をしている、という意味です。彼は告白者のように行為しますが、行為している最中も自らの神性を意識しているのです。アバターはその瞬間に実際に告白者となります。しかし普通の告白者となりながらも、なお意識的に自らの神性を経験しており、アバターとサッドグルの両者は同時に自らの神性に対する[神聖な]意識を保ち続けているのです。
