第24章: デヘラ・ドゥン、1953年
1954年· ババ 60歳ページ 3,426 / 5,444
それゆえ、生をその究極の死に屈服させることは、すべての行為を終わらせることなのです。行為が完全に終わるとき、限られた自己の生は、自然と自らを無限なる自己の存在として体験するのです。存在が実現されると、意識の進化と内化(involution)は完成し、幻影は消え去り、輪廻の法則はもはや束縛しないのです。
単に行為をなすことをやめるだけでは、決して行為を終わらせることはできません。それはただもう一つの行為——すなわち不活動という行為——を実行に移すことを意味するにすぎません。行為から逃れることは、行為を根絶するための処方ではありません。むしろそれは、限られた自己が逃避というその行為そのものにいっそう深く関わる余地を与え、結果としてさらに多くの行為を生み出すのです。善き行為も悪しき行為も、もつれた生の糸に結ばれた結び目のようなものです。行為の結び目を解こうとする努力が執拗であるほど、結び目は固くなり、もつれはますます深くなるのです。
毒が毒の作用を中和しうるのと同じように、行為を無効にできるのは、ほかでもない行為だけなのです。深く突き刺さった棘は、別の棘や、それに似た鋭い物——たとえば針——を熟練と注意をもって用いることで抜き取ることができます。同様に、行為もまた他の行為によって完全に根絶されます——それらが「自己」ではない何らかの作動主体によって行われるときに。
カルマ・ヨーガ、ジナーン・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガは、真理の道における際立った道標としての役割を果たし、求道者を永遠なる存在という目標へと導くのです。しかし行為によって養われる生の支配力は求道者に対してあまりに強く、これらの示唆に満ちた道標の助けをもってしても、彼は正しい方向へと導かれることができないのです。「自己」が行為によって縛られているかぎり、求道者も、いや真理への道を歩む巡礼者でさえ、自己欺瞞によって必ず道を踏み誤るのです。
あらゆる時代を通じて、サドゥーや求道者、賢者や聖者、ムニや修道士、タパスヴィやサンニャーシ、ヨーギ、スーフィー、タリブたちは、行為の迷路から自らを引き出し、生を乗り越えて永遠なる存在を実現しようとする努力のうちに、計り知れない苦難を味わいながら一生をかけて闘ってきたのです。1彼らが試みに失敗するのは、「自己」と闘えば闘うほど、その自己が生にますます強く掴まれてしまうからです。それは、苦行と参悔、隠棲と巡礼、瞑想と集中、断言の言葉と沈黙の観想、激しい活動と不活動、沈黙と冗言、ジャパ[反復]とタパス[苦行]、そしてあらゆる種類のヨーガとチェーラ[弟子修行]によって強められた行為を通じてなされるのです。
脚注
- 1.タリブはアラビアの求道者の一群である。
