第24章: デヘラ・ドゥン、1953年
1954年· ババ 60歳ページ 3,425 / 5,444
多様な襞と色彩を持つ生の外套に覆われ、見分けがつかぬほどに包み隠されているのが、不変の存在です。心、エネルギー、粗大な形態という幾重もの覆いを持つ生の衣装こそが、存在の上に「影を落とし」覆いかぶさり、永遠で分かちがたく不変なる存在を、はかなく多様で絶えず変化するものとして見せているのです。
存在は遍在し、生物か無生物か、実か非実か、種が多様か形が均一か、集合的か個別的か、抽象的か実質的かを問わず、あらゆるものの根底にある本質です。
存在の永遠性のうちには時間はありません。過去もなく未来もなく、ただ永遠なる現在のみがあります。永遠においては何も起こらなかったし、これから何も起こることはありません。すべては終わりなき「今」の中で起きています。
存在は神です。一方、生は幻影です。
存在は実在です。一方、生は想像です。
存在は永遠です。一方、生ははかなきものです。
存在は不変です。一方、生は絶えず変化します。
存在は自由です。一方、生は束縛です。
存在は分かちがたきものです。一方、生は多種多様です。
存在は感知し得ぬものです。一方、生は欺瞞に満ちています。
存在は独立しています。一方、生は心、エネルギー、粗大な形態に依存しています。
存在は「在る」のです。一方、生はただ「在るように見える」だけです。
ゆえに存在は生ではありません。
誕生と死は、生の始まりや終わりを示すものではありません。いわゆる誕生と死を構成する生の数々の段階と状態は、進化と輪廻の法則に支配されますが、生はただ一度だけ、限られた意識の最初のかすかな光線が訪れる時に生じ、ただ一度だけ、無限の存在の無制限の意識に達する時に死へと屈します。
存在——すなわち全知・全能・遍在の神——は、因果を超え、時間と空間を超え、あらゆる行為を超えています。存在はすべてに、すべての影に、すべてのものに触れます。何ものも存在に触れることはできません。存在しているというその事実すら、存在には触れません。
存在を実現するためには、生は脱ぎ捨てられねばなりません。無制限の自己に限界を付与するのは、ほかならぬ生です。限定された自我の生は、心が印象を作り出し、エネルギーが表現を通じてそれらの印象を蓄え、また散らす推進力を与え、粗大な形態と身体が、行為を通じてそれらの印象が費やされ、強化され、ついには使い尽くされる道具として機能することによって維持されます。
生は行為と濃密に結びついています。生は行為を通じて生きられます。生は行為を通じて価値づけられます。生の存続は行為に依存しています。意識ある生とは行為そのものです——本性において相反する行為、肯定と否定の行為、建設と破壊の行為です。
