第24章: デヘラ・ドゥン、1953年
1953年· ババ 59歳ページ 3,393 / 5,444
この善き思い、善き言葉、善き行いという戒律を実践に移すことは、不可能ではないにせよ、見かけほど容易にはまいりません。しかしこの戒律を正直に、文字どおりに生き抜くことは、見るところ、人生のただ中で「生ける死」を実践するのと同じほどに不可能なことなのです。
世にはサドゥ、マハトマ、マハー・プルシュ、聖者、ヨーギ、ワリが数えきれぬほど存在しますが、真にそうである者の数はごく、ごくわずかです。その数少ない真の者たちは、霊的な位階に応じて独自の範疇に属しており、それは普通の人間と同じ水準でもなく、また至高の中の至高の境地と同じ水準でもありません。
私はマハトマでもマハー・プルシュでもなく、サドゥでも聖者でもなく、ヨーギでもワリでもありません。富を得ようとの欲、自らの所有を守ろうとの欲をもって私のもとに来る者たち、苦しみと痛みからの救いを私を通して求める者たち、世俗の欲望を成し遂げ満たすために私の助けを求める者たち——その彼らに、私は今一度宣言します。私はサドゥでも、聖者でも、マハトマでも、マハー・プルシュでも、ヨーギでもないのですから、私を通してそうしたものを求めることは、徹底した失望を招くこと以外の何ものでもありません。もっともそれは表面上のことに過ぎず、結局のところ、その失望そのものが、世俗の欲求と欲望を完全に変容させる契機として、決まって働くからです。
中道(via media)の上にあるサドゥ、聖者、ヨーギ、ワリ、その他そうした者たちは、奇跡を行うことができ、また実際に行い、助けと救いを求めて彼らのもとに来る者たちの一時的な物質的必要を満たします。1
したがって、もし私がサドゥでもなく、聖者でもなく、ヨーギでもなく、マハー・プルシュでもなく、ワリでもないのなら、私は一体何なのか、という問いが生じます。自然な推測では、私は単なる普通の人間であるか、さもなくば至高の中の至高であるかのどちらかでしょう。しかしひとつだけはっきりと申し上げます。それは、私は真のサドゥや聖者、ヨーギ、その他そうした者たちが持つ中間的な位階の中には、決して含まれ得ないということです。
では、もし私が単なる普通の人間であるなら、私の能力も力も限られたものであり、普通の人間より優れているわけでも、異なっているわけでもないということになります。もし人々が私をそのような者と見るなら、彼らは奇跡や霊的指導という形での何の超自然的助けも私から期待すべきではなく、自分たちの欲望を満たすために私のもとへ来ることもまた、まったくの無駄となるでしょう。
脚注
- 1.ヴィア・メディア(via media)は「中道」あるいは「中間地点」を意味するラテン語である。この箇所では霊的道程の諸境地(プレーンズ)を指している。
