第24章: デヘラ・ドゥン、1953年
1953年· ババ 59歳ページ 3,375 / 5,444
クリシュナジーは、バーバーが命じたことこそまさに自分がしたかったことだ、と答えた。彼はマラバール(南インドの沿岸地方)にある故郷の村の小さな小屋へ行き、そこに住んでバーバー関連の書物を読むつもりだった。バーバーは彼の申し出に同意した。1
話題を変えると、バーバーはその年の12月、自分の体に何か深刻なことが起こると予想していたものの、四十人の者を伴ってアンドラ、ハミルプル、ボンベイ、プーナ、アフマドナガルを訪れたいと述べた。燃ゆる自由生活の各プログラムの時に課されていたような、彼の足に触れること、ひれ伏すこと、彼に対するプジャやアルティを行うことに対する制限は、今度はいっさい設けられないことになっていた。この点については、完全な自由が認められることになっていた。アディ・シニアにはアンドラのグループ責任者たちに知らせるよう指示が下され、ケシャヴ・ニガムにはハミルプルでの日程を整えるようにと言いつけられた。
1953年7月17日金曜日、バーバーはキシャン・シンの誕生日を祝い、ケーキと紅茶を配った。その後彼は、その場に居合わせなかった者たちのために、数日前に行われた神の諸状態についての談話を続けた:
マジュブの境地は非常に素晴らしいものです。彼には世のためになすべき事もなく、自身の体のためになすべき事もありません。彼自身が完全に没入しており、彼自身が神そのものなのです!彼にとっては、神のほかには何ものも存在しません。
ジーヴァンムクタは粗大意識を有しています。彼は食べ、飲みもしますが、この世とは何の関わりも持ちません。サッドグルやアバターもまた食べ、飲みますが、彼らの結びつきは全世界と、また一切の者たちとに及んでいます。
神はその超越の彼方の境地において絶対的に独立しており、自身についてさえも意識を持たないほどです。その境地において、神は力、知識、至福、美、そして叡智の源泉でいらっしゃいますが、それらを全く意識されることがないのです。先日、私はパラブラフマの境地においては神はアッラーと呼ばれると申し上げました。その境地において、神は絶対者でいらっしゃいます。その境地において、神はご自身の知識、力、至福、永遠性、そして無限性を意識されますが、その境地のままではそれらを表現することはおできになりません。
人間の姿をとった神は、これらすべてを表現することができます。神は永遠に独立しています。神が永遠であると申すのは、神が常にいたし、今も常におり、これから先も常にいるであろう、という意味です。皆さんはこれを把握することがおできになりません。私たちは通常の状態ではこの事を理解することができません。
神が「いらっしゃった」と想像してみてください。「いらっしゃった」と申すとき、それはそれ以前に何か別のものが存在していたという意味になります。それでは、始まりとは何であり、いつ始まったのでしょうか?そもそも始まりというものは全くなく、始まりがないというのに、どうして終わりがあり得ましょうか?
脚注
- 1.クリシュナジーはサコリにも赴き、しばらくそこに滞在した。
