第24章: デヘラ・ドゥン、1953年
1953年· ババ 59歳ページ 3,276 / 5,444
それから彼はエルチに、この声明(23日にデヘラ・ドゥンで口述され、のちに回覧の形で発表されたもの)を読み上げるように指示した:
我々は、いかなる量の学問、読書、教育、推論、説教も、我々に解脱[ムクティ]を与えることはできないと、一度ですべて理解しなければなりません。ヴェーダーンタ的な表現、スーフィーの談話、神秘的な言葉、哲学的な陳述は、霊的に我々をどこへも連れて行きません。宗教会議、霊的な団体、そしていわゆる普遍的兄弟愛は、魂を自由にするどころか、むしろ縛りつけがちです。
我々が知性を超越し、愛の領域に入ったときにのみ、我々は解脱を熱望することができます。神への愛が頂点に達するとき、我々は愛しき主なる神のうちに自らを失い、永遠の解脱に達します。解脱した者たちは、あらゆる幻影的な執着から永遠に自由です。善と悪、徳と悪徳は、神聖な真理の大洋を汚すことはできません。
完全性とは、単にマーヤー的な法則から逃れることだけを意味するのではありません。人間が神になることが完全性です。しかし人間が、意識的に神となった後、再び人間として粗大意識に戻ったとき、その者は至高の完全性を達成したのです。そのような完全なる者は、ただ神であるだけでなく、人間として神の生を生きています。そのお方はマーヤーのうちにありながら、同時にそれを超越しておられます。そのお方はカルマの法則のただ中にあって、それに縛られません。そのお方の行為が何であれ、それらは非行為です。なぜなら、普通の人間を縛る行為も、完全なる者によって行われるときには縛らないだけでなく、人類をマーヤーの無知から解放するそのお方の普遍的な霊的活動のための通路となるからです。完全なる者たちは「自由」そのものからも自由であり、それゆえ自身の普遍的な活動のために行う非行為からさえも自由です。
私を愛し、当然のように私の活動について知りたく思う方々には、こう申し上げるしかありません——私の内なる生と内的な活動については、神と、神と一つである者たちのみが知り、理解できるのです。神に酔う者たち[マスト]、聖者、サドゥー、そして貧しい者たちと共に行う私の働き——彼らに会い、彼らと共に働き、彼らに仕え、全身全霊の献身をもって彼らに頭を垂れること——に関する外的な活動については、それらすべてが私の一人の弟子によって『ウェイファーラーズ』に記録されています。
私は遊びを楽しみます。主にクリケット、ビー玉遊び、凧揚げ、そしてまれにではありますが音楽を聴くことも楽しみます。太古の昔から今日に至るまで、私はマーヤー的な宇宙と戯れてきましたし、この戯れの楽しみは今もなお続いています。
