第23章: 燃えるような自由な人生
1952年· ババ 58歳ページ 3,208 / 5,444
「至福としての神」というメッセージが、いくつかの場所で朗読された:
いたる所、あらゆる人生の場面において、人間は例外なく幸福を渇望しています。感覚的な生のさまざまな誘惑や、自我を養い擽る多くの所有物や成就から、また知性を刺激し、心を昂らせ、胸を鎮め、魂に活力を与える無数の体験から — それらすべてから、人はさまざまな種類の幸福を求めるのです。しかし、人はそれを二元性の世界と、私たちが宇宙と呼ぶマーヤー的な幻影の過ぎゆく影の中に求めるのです。そして人は、そこで得る幸福があまりにも一時的で、体験するその瞬間にすでに消え去ってしまうほどであることに気付きます。そしてそれが消え去った後に残るのは、底なしの虚無であり、いかに似たような体験を重ねても決して完全に埋めることはできないのです。
しかし真の至福は、勇気を奮い起こして、二元性の幻影に他ならない一切の形への執着から自由となる者にのみ訪れます。その時にこそ、人は真の愛しい方と一つに結ばれ得るのです。その方こそ、人が自らの肉体と見なすものを含むあらゆる形の背後にある、不変にして永遠の真理である神なのです。
終わりなく、計り知れない至福の大海が、誰の内にも宿っています。何らかの形での幸福が全く欠けている個人は存在しません。なぜなら至福の大海である神から完全に断ち切られた個人もまた存在しないからです。人がこれまでに味わったあらゆる種類の快楽は、究極的にはアーナンダ[至福]としての神の部分的かつ幻影的な反映に過ぎません。しかし無知の中で求められ、体験される快楽は、究極的には魂を自我の偽りの生の終わりなき継続へと縛りつけ、魂を自我の生の多くの苦しみに晒したままにします。幻影の世界の快楽は、見かけ上は大海へと注ぎ込む数多の蜃気楼の川にも譬えられます。神聖な至福は、常に新鮮で、常に永続し、絶え間なく、神自身の自足にして無限の歓びとして果てしなく体験されます。
アーナンダ、すなわち至福としての神である、皆さんの真の愛しい方と一つに結ばれなさい!
アマルプラでのダルシャンの手配はヴィレンドラ・シンが行った。村の外れに、老いた男女が一つの小屋で暮らしていた。二人は真心からバーバーが訪れて自分たちのささやかな住まいを聖別してくれることを切望していたが、お願いする勇気は持たなかった。その日、プログラムが終わったあと、バーバーは直接の道を行かずに、別のルートで車を走らせるよう頼んだ。
