第23章: 燃えるような自由な人生
1952年· ババ 58歳ページ 3,157 / 5,444
西洋で私は事故に遭いました。顔は腫れ、腕は三角巾に吊られ、脚にはギプスがはめられたまま、私は[ベッドに]静かに横たわっていなければなりませんでした。それでも人々は私に会いに来ました。彼らは、私が美しく光り輝いて見えると言いました。彼らが私を美しいと見たのは、彼らの愛を通してのことでした。
手紙によって、現在、西洋の多くの人々が私に関する奇跡的な体験をしているということを知らされています。彼らはそこで私を見たと書いてきます。しかし正直に申しますと、私はこのことについて1パーセントも知りません。私がそれを行っていないのに、どうしてそれを知ることができますか。もしあなた方が、私が意識的にこれらすべての「奇跡」を行い、それを知っているとお考えなら、それは誤解です。では、誰がそれを行ったのでしょうか。神が私のために行ったのであり、11月15日以降は、神が私にそれを行わせ、それを知らせるでしょう。私が言いたいのは、神がすべてを行うということです。
その後バーバーは、神のリーラー、すなわち遊戯あるいはユーモアの感覚について述べた:
神のリーラーは神聖なる戯れです!それは神の偉大なる方々を通して現れる神聖なるユーモアの感覚の表現であり、それゆえ神のユーモアの感覚については幾巻もの書物を書くことができます。
通常のユーモアの感覚は、多かれ少なかれすべての個人に備わっており、霊的進歩や神的悟りを得たというだけの理由で変化するものではありません。ユーモアの感覚だけでなく、人の通常の個人的な本性全体が、どれほど霊的に進歩しようとも、悟りに達しようとも、変わらぬままです。
しかしながら、アバター、預言者、完全なる導師、聖者を通じての神のユーモアの感覚の範囲と幅は、その時代と状況に応じた彼らそれぞれの務めの範囲と幅により異なります。しかし、ユーモアの感覚——通常のものと神聖なものの両方——の表現の形と、それに対する反応の度合いは、神の偉大なる方々の本来の性質に依拠しています。
私がアバターであれサタンであれ、確かなことが一つあります。それは、私が大いなるユーモアの感覚を備えているということです。アンナ104を見て喜び、ババダスの脈絡のない話を聞いて楽しい気分になるのも、まさに私のユーモアの感覚があってこそなのです。
