第23章: 燃えるような自由な人生
1952年· ババ 58歳ページ 3,142 / 5,444
要するに、皆さんが想像することのできないものこそ知識であり、それはリシ[聖仙]やムニ[沈黙の聖者]でさえも想像することができません。神聖なるスワヤンブーの知識を捉えられないのに、その知識を持つお方をどうして捉えられましょうか。しかし、その知識を説き始めるドニャーニー[知識の所有者]と接する機会を得たならば、それは皆さんが知識への道の途上にあることを意味します。知識さえ想像できぬのですから、ドニャーニーについては言うまでもありません。ヴィドニャーナーヴェスタ[神聖な知識]がリシたちに想像できないのであれば、ドニャーニーの境地について彼らはいったい何を想像できるでしょうか。
ワリー[聖者]たちは、その知識の影を、触れることや視線、あるいは自らの好む者の頭に手を置くことによって与えることができます。なぜ彼らは頭に手を置くのでしょうか。そこが知識の座であるからです。ですから、ワリーたちが自らのタワッジュフ[霊的な力または勢い]を通して誰かの頭に手を置けば、その者は[知識の]影を受け取ります。その場合でさえ、肉体意識は失われます。しかしこれは知識ではありません。『ドニャーネーシュワリー』には、この知識はサッドグルの介在を経なければ得られないと記されています。
知識についてはこれですべてです。私自身について言えば、私は神への愛こそが真の知識へと至る最良の道だと考えております。なぜなら、ただ神のみが愛するに値するからです。
朝の談話を終えた後、バーバーは次の言葉で締めくくった。
知識は常に思いがけずに訪れます。神はあまりにも慈愛深く、その限りない慈愛は想像することすらできません。自分は多くの苦しみを耐え忍んできたのに、神は依然として恩寵を注いでくれないと考える者もいます。しかし実のところ、必要な準備が整っていないのです。ハーフィズはこう申しました。
髪の一筋の片端は我が手に、もう一方の端は友の手にあり。
我らの綱引きは長き年月にわたって続いている。
しかし定められた時が来て、必要な準備が整っているならば、その瞬間にその人が何をしていようと関係なく、知識は訪れます。
昼食に出かける前、バーバーは翌日に各人に個別の面会を許すと述べ、こう付け加えた。
「私はこれを自分自身の仕事のために行うのであって、個人的な困難を巡って各人が『泣き喚く』のを聞くためではありません。確かにそうした困難はあります。しかし、それらが多かれ少なかれ常に存在してきたこともまた、同じように真実です。事実、人は死ぬとき、なし終えたものもなしえなかったものも、重要なものも重要でないものも、そのすべてをそのまま置いて去らねばなりません。なんと滑稽なことでしょう!」
