第23章: 燃えるような自由な人生
1952年· ババ 58歳ページ 3,140 / 5,444
ナナ・ケルは、病に倒れる者が出た場合にその代理を務めることになっていた。
これらの任務が割り当てられた後、バーバーは「知識(ジナーナ)」についての次の談話を口述した。
知識とは、果てしない進化の諸形態を経た後でさえも、得ることが非常に困難なものであります。しかしそれは、ほんの一瞬で掴むことさえできます。知識とはそういうものです。
想像力は非常に強く、その及ぶ範囲は実に無限であるため、皆さんは何でも想像することができます。百万の頭を持つ鼠さえも想像できます。自らを王であると想像することもできます。宇宙は想像の所産であります。しかし最後には、一つの歯止めがあります。想像力は永遠に達することはできません。永遠においては、時間という問題は存在しません。始まりも終わりも無いものが、どうして時間によって限られ得ましょうか。
始まりには何があったのでしょうか。しかし始まりが無いのであれば、いったいどうして始まりがあり得ましょうか。どれほど想像力を働かせても、無限について思惟することはできません。この知識は一秒のうちに訪れるものでありながら、無限の数の形態を経たとしても、掴むことはできないのです。来るときには、一瞬にして来るのです。
知識とは何でありましょうか。それに達することのできないヴェーダーンタが、それを説明しております。我々は神を、限りなく岸辺なき大洋に喩えることができます。我々は皆、その大洋の中の滴であります。我々は滴や大洋を想像することはできますが、ジナーナを想像することはできません。我々が想像できないものとは、いったい何でありましょうか。それは、始まりも終わりも無き「もの」なのであります。これがジナーナであります。我々が想像することのできない唯一のものとは、始まりを超え、終わりを超えたものであります。誰一人としてこれを掴むことはできません。リシ[聖仙]やムニ[牟尼]でさえも、当惑するのです。
ハーフィズはこう詠っております。
知識の鷹は、想像の網に決して捕らえられはしない。
ゆえにこの網を畳むがよい、そこに掛かるのは虚しさのみなれば。
ただサッドグルだけが、この知識を一瞬のうちに授けることができます。ハーフィズの述べたことを踏まえますと、始まりなき始まりについていかに深く思惟しようとも、我々はそれを掴むことも説明することもできない、という結論に至ります。
始まりには神があり、神の前にも神があり、その神の前にもまた神があったのであります!終わりには何があるのでしょうか。神です。そして、その後には?神です。
知性という媒体を通しては、これを説明することはできません。なぜならそこでは想像力が当惑し、心と知性は何もなし得ないからであります。心(マインド)は想像において強く、その心の想像を通して、全世界は創造され、運行されているのであります。
