第20章: マンジリ・マフィ
1950年· ババ 56歳ページ 2,887 / 5,444
しかしながら、私が自由でないばかりか自ら意図的に縛られている唯一のことは、あなたがいかなる種類の益も最も小さなものすら受け取らないということを絶対的な確実さとして受け入れなければならず、あらゆる種類の失望と逆境に備えていなければならないという条件についてです。この条件は永遠に有効であり、私によって決して変更されたり、無効にされたりすることはありません。
さらに、いかなる結果が生じようとも、それに対する神の前でのあなた個人の責任を免除するような命令を私が下すことも決してないということが、絶対的に明確でなければなりません。したがって、ありとあらゆる結果に対する神の前での責任は、永遠に全くもってあなた一人だけにあるということを絶対的な確実さとして受け入れなければなりません — そして私は、この責任を変更したり無効にしたりするような命令を決して下しません。
翌日の2月21日、バーバーはマニにすべての条件と新生活についての自分の説明をタイプするよう指示した。それはアフマドナガルのアディ・シニアに送られ、回覧文として印刷し、インド、パキスタン、セイロン全土に配布するよう指示が添えられた。
その回覧文は1950年3月10日に発行された。
デリーのケキ・デサイは2月23日にデラ・ドゥンに到着し、同伴者たちと一週間を過ごした。25日、バーバーは自らの手で同伴者たちに食事を給仕した。翌日、女性たちはマハント・ジャムナダスの家からマンジリ・マフィの敷地内のコテージへ移った。男性用の小屋は準備が整っていなかったため、バーバーと男性たちはさらに数日マハントのバンガローに滞在した。
ケキ・ナラワラはデラ・ドゥンのリットン通り29番地にある自宅の真向かいに小さな家を借り、ドンの診療所として使えるようにしていた。1950年2月28日火曜日の午後2時半、開所式が行われ、バーバーは男女の同伴者たちと共に出席した。マンジリ・マフィとデラ・ドゥンの親しい愛者たちも顔を見せた。バーバーは皆にケーキとペイストリーとラワ[rawa=粗挽き小麦]を配り、フレイニ・ナラワラと妹のシェルー・チャチャがお茶を給仕した。その折、バーバーは、ドンが新生活の同伴者たちを財政面で助けるため、計画一-Bに基づき医師として開業しているのだと説明した。
マンジリ・マフィへ戻る前に、バーバーは女性たちと共にしばらくナラワラ家とブルジョール家を訪ねた。ナラワラ家では、バーバーは四歳の息子ナオシェルワンと九歳の娘マフロアクと遊んだ。
