第16章: 戦時中のマストへの旅
1942年· ババ 48歳ページ 2,274 / 5,444
純粋で単純な非暴力は、神の超越の状態です。それは人類の目標です。それは、まだ求道者の段階にある者には存在し得ません。しかし求道者は、「勇者の非暴力」あるいは「無私の暴力」、すなわち非暴力的暴力という手段を通じて、この目標に到達することができます。
愛しき主なる神が目標です。愛が手段です。愛する者は、愛を通して愛しいお方に到達することができます。パラマートマの超越の状態にある神は、無限の愛、光、いのちです。彼はすべてです。神を実現し、無限の愛を持たない限り、人は純粋かつ無限に非暴力であることはできません。愛が欲望を含まないように、神は暴力を含みません。純粋で単純な非暴力は、無限の愛なのです。
愛しいお方を見たいと切望する愛する者は、道の上の求道者と同じ段階、同じ範疇にあります。愛を通して愛しいお方と一つになったマジュブは、神と同じ状態にあります。
これらの段階の違いは、次のように説明することができます。誰かにあなたが平手打ちされたり蹴られたりしたとしましょう。もし報復をせず、黙ったまま何もしないなら、それは「勇者の非暴力」を実践する求道者の範疇です。マジュブが誰かに同じように平手打ちされたり蹴られたりした場合、状況はまったく違います。彼には黙っている必要も自制する必要もなく、そのために努力する必要もありません。なぜなら、神聖な至福であるマジュブとしての彼の状態においては、平手打ちも蹴りも一切「感じない」からです。彼はそうした感覚の状態を超えています。
「感じる」という問題は、神-実現の後でさえ、神を実現した存在が再び通常の意識をもって現象世界に降り立った時にのみ生じます。そこで彼は、神聖な愛に基づく純粋で単純な非暴力を用い、無限の愛を通して攻撃者――平手打ちした者や蹴った者――を諭そうとすることができます。すべての魂が一つである彼の超越の状態において、彼自身が打つ者であると同時に打たれる者であり、攻撃者であると同時に被害者なのです。
それは一体性――合一――か、二元性かのいずれかです。その間に段階はありません。
ヨーガによって手段は異なります。例えばバクティ・ヨーガでは愛が、カルマ・ヨーガでは非暴力が、というようにです。カルマ・ヨーガにおいて、個人に対する愛は「勇者の非暴力」であり、大衆に対する愛は「非暴力的暴力」です。カルマ・ヨーガにおける愛しいお方は、純粋で単純な非暴力です。さて、その愛しいお方の側面に到達するためには、愛の道を通らなければなりません。
