第15章: 隠遁
1940年· ババ 46歳ページ 2,146 / 5,444
マドゥライやポンディシェリーのような一部のアシュラムには、実際に瞑想のクラスがあります。しかし、瞑想によって人が神と一つになったことは、まだ一度もありません!ハフィズはスーフィーたちにこう言いました。「神との合一を成し遂げたいという『気まぐれ』があるならば、神と一つになった方の足下の塵となれ!」
瞑想は、運の良い一部の者たちに平安と多少の内なる啓示を与えます。オーロビンド[ゴーシュ]は自分の本にこう書きました。「私は瞑想を通じてその境地に達しようと努めている」もし瞑想によって悟りが得られるならば、それは決して小さなことではありません。瞑想の意味は、自己の内面深くに入っていくことです。それは神聖な方法による自己催眠です ── すなわち、自我以外の何ものも考えないことで自分自身を忘れ、自己を失うのです。
オーロビンドは、ワリ・マストの状態によってではなく、瞑想によって第六の境地にいます。チャッティ・ババは一度も瞑想したことがありませんが、昼も夜も神を見ています。そして、二人とも第六の境地にいるとはいえ、両者の間には大きな違いがあります。愛は永続性を与え、瞑想はサマーディを与えます。神との合一の後には、[粗大意識へ]降りてこようとそうでなかろうと、完全な永続性が存在します。降りてくれば、神を一緒に連れてくることになります!
オーロビンドは、神を見ることと神そのものとの間にある「深き谷」について美しく書いています。彼は言います。「我々はこちら側で叫ぶ。『おお神よ、あなたを見ているのに、あなたのもとへ行けません! ですから、せめてあなたがこちらに来てくれ!』」そして神は答えます。「私はいつもラーム、クリシュナ、ブッダ、その他の者として来ているのだ」1
スーフィーたちは瞑想にこだわりはしません。彼らは愛するのです!
瞑想は良いものです。愛しながら瞑想するのなら、害はありません。愛していて瞑想をしないとしても、害はありません。しかし、キニーネの粉を飲まされたかのように瞑想をしてはいけません!何としてでも済ませて終わらせなければならない事柄であるかのように、です!瞑想に関心があるのなら、喜びをもって行うべきです。瞑想がお好きでないのなら、私の名を唱えなさい。そして私を愛しているのであれば、私の名を唱えることは喜びとなるはずです。好きな時に、好きな場所で行いなさい。
外部の妨害や騒音に言及しながら、バーバーは述べた。
ヒマラヤにおいてさえ、完全な静けさは得られません!しかし九月を過ぎれば、ドーム[墓]の近くで瞑想することができます。サマーディとは、すぐ近くで銃声が鳴っても聞こえない状態のことです!
脚注
- 1.バーバーはオーロビンドの著作を称賛していたものの、ある時、アディ・シニアがオーロビンドの本を読んでいるのを見つけたバーバーは、彼にこう言った。「あなたは聖者たちと何の関わりがありますか? あなたにはこの私 ── アバターがいるのです! そのような本はすべて投げ捨てなさい!」
