第13章: ナシクとカンヌ
1937年· ババ 43歳ページ 1,811 / 5,444
「あなたは今、特別な体験で満たされて帰ろうとしておられます。たとえそれらを意識しておられないとしても。だからこそ、あなたはそれほど不安で、苦しくさえあり、空手で帰っていくとお感じになるのです。しかし、ひとたびベールが裂き開かれれば、光、知識、理解、悟りが訪れるでしょう ― そしてあなたはすべてを知ることになります。」
バーバーはギャレットに、与えられたすべての命令、とりわけ欲情に駆られた行為を慎むことに関するものを守るよう促した。
バーバーは彼に警告した、「一度の肉体関係ですべてを失うのですから、ご注意ください!」
ギャレット・フォートは1937年3月24日、チャンジと共に汽車でナシクを発ち、バーバーの命令に従って翌日正午、カリフォルニアに向かうコンテ・ヴェルデ号で出航した。彼が再びメヘル・バーバーに会うことはなかった。フォートの出発は、ナシク・アシュラムの終わりの始まりだった。それはまた、雑誌『アバター』が結局創刊されなかった理由の一つでもあった。1
ギャレットの考えは無邪気ではあったが、純朴すぎた。自身の作品で多額の収入を得てきた成功したハリウッドの脚本家が、神を意識した導師と数か月を共に過ごし、「神秘の」インドから帰国の途についていた。彼は映画業界に戻って働き、数千ドルを稼いでバーバーに送ることに熱意を燃やしていた。彼の頭にあるのは、バーバーが自分をどれほど誇りに思ってくれるかということだけだった。しかし、事はフォートの計画通りには運ばなかった。実のところ、彼の真心に疑いの余地はなかったとはいえ、バーバーを「助ける」ための自分なりの計画を練るよりも、インドにとどまってバーバーに自分の未来を委ねていたほうが賢明であっただろう。メヘル・バーバーは、何かをしたいと意気込み、自分の同意や許可を求めて来る人に対して、めったに否とは言わなかった。バーバーはその人物に自らの心を用いて夢を追わせ、それから一切を師に委ねることの賢明さを自分自身で学ばせた。
悲劇的なことに、ギャレット・フォートはハリウッドに戻り、何年にもわたる失業と無為の日々に直面することとなった。彼は深い借金に陥り、自分の窮状を詳しく綴った長い手紙をバーバーに書き送った。仕事が見つからないことは彼にとって紛れもない拷問であり、バーバーの大義のために金を稼ぐことができないのは深い挫折だった。皮肉なことに、この交流の期間中、メヘル・バーバーが折に触れて彼に金を送ることさえあった。バーバーとフォートの間で数か月にわたる文通が続いた。フォート自身が「めそめそした」と評した手紙の一通で、自分を助けるために何かしてほしいとバーバーに求めた後、バーバーは次の手紙を送った(カンヌより、1937年10月3日付):
脚注
- 1.バーバーはこの雑誌は5年間続けるべきだと述べていたが、他の西洋人たちもナシクに7か月しか滞在しなかったため、出版は実現しなかった。おそらくバーバーが雑誌に関する命令を出したことには別の理由があったのだろう。なぜなら、それはマルコムとフォートの間に多くの衝突を引き起こし、バーバーは常に衝突を通じて働きかけていたからである。しかし計画された出版が完全に放棄されたわけではなく、18か月後に『メヘル・バーバー・ジャーナル』として始まることになる。
