第12章: 映画プロジェクトとインドでの仕事
1936年· ババ 42歳ページ 1,718 / 5,444
要するに、彼らはどちら側にも容易に偏見を抱くことはなく、ある人物を聖者や導師として受け入れる前にも後にも、常に分別を働かせるのです。
もし西洋でアイアーの場合のような事例があったなら、私はその人に状況を説明することをためらわないでしょう。なぜなら、その人は分別を働かせ、私の説明が十分に与えられればそれを消化し受け入れることができると、私には分かっているからです。一方、インドの人はどれほど教育を受けていても、理想や考え方の違い、そして一定の性格的特徴のために、そうすることはきわめてまれです。
インドでは、私のような導師に対して非常に固く揺るぎない信仰を抱いている人々は、私が映画館やある種の娯楽・行楽の場所へ行ったとしたら、たちまちあれこれ考え始め、偏見をもって反応するでしょう。ところが西洋では、人々は反対に、ほとんど無理にでも私を映画や劇場、そういった場所へ連れて行こうとするでしょう。なぜならヨーロッパやアメリカのそうした人々は分別を働かせ、物質界で働く導師が娯楽や行楽の場所へ行くことに何の不適切さも見ないからです。一方、インドの人々は、聖者や導師は世間のものごとには一切関わらず、ましてや娯楽や遊興などとはなおさら関わりがないという、固定化した理想と偏見のために、そのような考えを一瞬たりとも許そうとしないでしょう!そして、こんなこと、つまり映画館や劇場に出入りするようなことをする者は、決して霊的な存在ではあり得ず、ましてや聖者や導師ではあり得ない、というのです。
食物や衣服、生活の様式や作法など、日常の他の多くのことについても同じです。インドの人々は、聖者の生活と活動はつねに洞窟や山、あるいは町や都市から遠く離れた人里離れた場所にあるアシュラムにあるべきだという、きわめて固定的な理想を持っています。そうした聖者たちは、髭と長い髪を蓄えた一定の外見をしているか、あるいはスワーミーのように頭から全身までさっぱり剃り上げていなければなりません。彼らは一定の衣服、すなわち長い法衣、白または黄土色のカフニ[長衣]を着なければならず、特定のものを食べたり飲んだりしてはなりません。彼らはたいてい牛乳と水だけで暮らすか、断食しなければなりません。禁欲が大きければ大きいほど、彼らの霊的な威厳と進歩も大きいとされるのです。彼らは宗教の聖典を知らねばなりません。ヒンドゥー教徒であればシャストラ[聖典]、ムスリムであればスーフィーやその他の文献をです。また、彼らは特定のヨガの修行やアーサナ[体位]を行わなければなりません。彼らのアシュラムでの生活は、すべての者に等しく適用される厳格な規則のもとで統制され、規律されていなければなりません。
