第12章: 映画プロジェクトとインドでの仕事
1934年· ババ 40歳ページ 1,644 / 5,444
家族と会った後、バーバーはアブドゥラ夫妻の家を訪れ、そこで夕食をとった。その夫妻は結婚生活で問題を抱えており、バーバーが事をまとめてくれた。彼とマンダリは同じ夜遅く、土砂降りの雨の中をきわめてゆっくり走り、メヘラバードへ戻った。
メヘラバードでバーバーは、自分の留守中のメヘラバード運営について4日に会議を開いた。彼は女性たちをナーシクへ移すこと(実際にそこで適当な平屋まで見に行った)とマンダリを解散することを考えていたが、結局は、自分が戻るまで全員をメヘラバードに留めておくことに決めた。男たちの世話はパドリとペンドゥが、女たちの世話はピラマイが受け持つこととされ、グルマイが仲介役を務めた。
ドゥルガバイの息子ラグナート・カルマルカルはその日バーバーに会い、ウパスニ・マハラジが多くの貴重品をゴーダーヴリ名義に移し、さらに彼女が自分のアシュラムに居続けられるようにと、ゴーダーヴリの法的な「夫」に七千か八千ルピーまで与えていたと伝えた。ラグナートは謙虚な性格ではあったが、マハラジが彼に対して、自分(マハラジ)の中に「欲情」が生じたと語ったことに困惑していた。バーバーは彼に状況を説明し、他者にゴーダーヴリのダルシャンを受けるよう求めるほどに彼女を持ち上げようとするマハラジの傾向には反対だが、マハラジの働き方そのものについては賛成も反対もしないと述べた。彼はマハラジに信託を設立し、財産をそこへ移すよう提案した。
後にバーバーはこう述べた。
約四年前にドゥルガバイがマハラジと決別したという知らせと、コーパルガオンで形成された徒党を助けてマハラジを害そうとする彼女のふるまいは、驚くべきと同時に痛ましいことです。二十五年のサットサンも、嫉妬と貪欲に起因する怒りの発作には勝てなかったのです。[マハラジに反するよう]自分の息子をも[説き伏せて、]彼女はとうとう低次の本性の衝動に屈したのです。
一方、ウパスニ・マハラジに関する名誉毀損訴訟は進行中であり、彼は10月26日にアフマドナガルの法廷で証言するよう召喚された。検察側の証人が現れず、審理は翌日まで延期された。マハラジはその夜をクシュルー・クォーターズで過ごした。ゴーダーヴリは28日に証言し、その後マハラジとカンヤたちは午後4時にサコリへ向けて出発した。1
ヨーロッパへ発つ前にバーバーは、愛する者たちに向けて『メヘル・ガゼット』に掲載するよう次のメッセージを送った。「愛によって結ばれた者は、別離を知りません。私がどこにいようとも、あなたがどこにいようとも、私は常にあなたと共にあります!」
1934年11月15日木曜日、バーバーはヨーロッパへ向けて出航するため、ボンベイでSSトスカニア号に乗船した。
脚注
- 1.マハラジは1934年12月10日、ハイデラバードへ向かう途中で再びクシュルー・クォーターズに立ち寄り、そこで二時間滞在した。訴訟はその一年後にようやく決着し、マハラジはデーヴァダーシー法のもとで幼い少女たちを偶像と結婚させた罪で有罪とされた。マハラジには100ルピーの罰金が科されたが、判決は控訴され、後に覆された。
