第11章: ポルトフィーノ
1933年· ババ 39歳ページ 1,541 / 5,444
26日、ミヌー・ポホワラがビジャプールからバーバーに会いに来た。三年ぶりの再会だった。翌日、アブドゥラ・ジャッファーが家族とともに、ラムジューの息子ダドゥを連れてやって来た。
その間、バーバーは1933年8月17日に日帰りでボンベイへ行き、9月4日月曜日には来たる西方旅行のための船便を予約しに再び出向いた。バーバーは、マンジル・エ・ミーム時代の元弟子で全インド代表のクリケット選手だったヴァジフダルに会った。1バーバーは当時ボンベイに住んでいたベヘラム、ペリン、メモにも会った。
その夜、バーバーがメモとペリンを連れて出かけたいと言ったので、一行はアポロ劇場へ映画『白衣の修道女(The White Sister)』を観に行った。ロマンティックな恋愛物語であるその映画は強く勧められていたが、残念ながらせりふが一言も聞き取れず、終わるずっと前に劇場を出た。
9月6日、バーバーはアラマイ・カトラクの家に行き、その子供たちとしばらくキャロムを楽しんだあと、その日の午後3時15分にナシックへ向けて出発した。
1933年9月の間、小冊子『問答 (Questions and Answers)』が英語から複数の言語に翻訳されつつあった。マラーティー語へはカレママ、K・K・マネカル、ドゥリアのケルカルが、グジャラート語へはソマ・デサイがチャンジの助けを借りて、ペルシア語へはラオサヘブが訳しており、ラオサヘブは毎日自分の訳をバーバーに読み聞かせていた。来たる訪問を伝える手紙と電報が西方に送られている間、バーバーはマンダリの今後の事柄を見渡し、一人ひとりに任務を割り当てていた。
この時期はカカがバーバーの当番を務めていたが、9月13日にカカがボンベイへ戻ると、その役目はペンドゥに引き継がれた。その日、ラムジューの新刊『シュリー・メヘル・バーバー──その哲学と教え (Shree Meher Baba: His Philosophy & Teachings)』のために、また写真を求めることの多い西方の信者たちに贈るために、バーバーの写真が特別に撮影された。バーバーはその本の原稿に目を通し、いくつか修正を施した。
14日の午後3時、バーバーはサイイド・サヘブの家へお茶と音楽の集いに出かけ、それは6時まで続いた。その日、ヌッセルワン・サタがアフマドナガルから到着し、翌日にはマドラスのアイヤンガル一家がバーバーのダルシャンのためにやって来た。
1933年9月15日金曜日、バーバーがペンドゥをメヘラバードに派遣し、そこに特定の建物を建てるよう指示したことで、マンダリの計画は変更された。セイラー、シドゥ、バラ・スペカル、カリンガドがペンドゥに同行して派遣された。バラは、カスバ・ペス・マンダリの一人で1926年に亡くなったアルジュン・スペカルの兄弟だった。カリンガドはもともとペルシアの出身で、メヘル・アシュラムの生徒だった。
脚注
- 1.1933年以降ヴァジフダルがメヘル・バーバーと再会した記録は残っていないが、ペンドゥの回想によれば、ヴァジフダルは1950年代に一度ボンベイにバーバーを訪ねたという。ヴァジフダルは1961年に亡くなった。
