第11章: ポルトフィーノ
1933年· ババ 39歳ページ 1,540 / 5,444
バーバーはほぼ全員を退室させ、バシールに本当に何を望んでいるのか個別に尋ねた。バシールは言った。「バーバー、お金が必要ですので、良い仕事を見つけるのを助けてください。」
バーバーは微笑んだ。
少し落胆した様子で、彼は綴った。「マンダリの前で私がどれほどあなたを高めたか、ご覧なさい。それなのに、あなたは今やそれをすべて崩してしまったのです。あなたはムクティ[解脱]の高みから、職探しへと降りてきたのですね!」
バーバーはルストムにバシールを雇うよう頼み、バシールはルストムの申し出をありがたく受け入れた。
ゴヘル・イラニは1932年に兄ジャルとともにクエッタからアフマドナガルへ引っ越していた。残りの家族は1933年に引っ越したが、これは1935年に起こる恐ろしい地震の前にクエッタを離れよ、というバーバーの警告に従ったものであった。家族の全員がバーバーに帰依しており、特にゴヘルと姉妹のケイティはそうであった。8月22日、「ルシ・ポップ」(ゴヘルの父はそう呼ばれるようになった)がナシックに到着した。彼は一晩泊まり、翌日従兄のアディ・シニアと共にアフマドナガルへ向けて発った。
バーバーがナシックに戻った日、彼はニューヨークのグレアム・ストークスから、シカゴで開かれる全宗教会議への出席を促す招待を受けた。しばらく後、会議の事務局長からも二度目の招待が届いた。バーバーは、それまでに沈黙を破っていない場合は、アルファベット板を通じて会議にメッセージを伝えるという条件で参加に同意した。会議の議長にその旨が伝えられ、議長はこの条件を受け入れた。バーバーは概してこの種の公の集会に出席することを好まなかった。それゆえ、彼の承諾はマンダリにとって意外であった。バーバーはアメリカへ向かうことを決め、準備が始まった。
バーバーの不在中にマンダリが何をすべきかについて、毎日話し合いが持たれた。ナシックに留まるべきか、それともメヘラバードに留まるべきか、また時間をどのように過ごすべきか?バーバーは男性たちを手すきにしておきたくはなかった。すべてを取り決めるための会合が1933年8月26日土曜日に開かれた。メヘラバードに新しい建物をいくつか建てるという話があったが、後にナシックに永続的に留まることが決まれば、メヘラバードに建物を建てることはお金とエネルギーの無駄になるであろう。ルストムは、マンダリの助力を得て自身の映画計画を実現するための予備的な段階を踏んではどうかと提案した。バーバーはこの考えを気に入り、ベヘラムとペンドゥが映画カメラの操作を学び、ジャルバイが演技を学ぶよう決めた。
バーバーが発つ前に、無声喜劇の試作映画を撮影することになっていた。ペンドゥとシドゥがインド各地を旅して様々な土地を撮影し、後にルストムの映画で必要に応じて用いるための場面を確保するという計画も立てられた。(この計画は後に取りやめとなった。)ペンドゥはフィルムの現像を学び、また映画の仕事に必要な資材の発注と管理を行うことになっていた。
