第10章: 歌い始めた西洋
1932年· ババ 38歳ページ 1,446 / 5,444
翌朝七時、彼らは南京に到着した。ペンドゥとグスタジは、バーバーを出迎えるためプラットホームで待っていた。一行は皆、駅から2マイル離れたハーバートの家に滞在しに行った。命じられたとおり、ペンドゥ、グスタジ、ジャルバーイは、バーバーがアメリカへ呼び寄せてくれるのを期待しながら、3か月間中国で待っていた。バーバーが中国に到着する前に、ヴィシュヌとラオサヘブはナシクへ送り返されていた。
軽食のあと、ハーバートはバーバーを南京の城壁を見に連れて行った。近くに湖があり、バーバーはその湖畔を長い距離歩いた。南京は心地よい都市で、バーバーとマンダリにプーナを思い起こさせた。午後、バーバーは革命指導者・孫文の記念堂を見るため、車で紫金山に上った。1道路は荒れていたが、バーバーは周囲の環境を気に入っていた。
夕方には、一行はバーバーの部屋で彼を囲んで座り、音楽を聴いた。その後、バーバーは計画変更について、アメリカ、イギリス、インドへ送る電報をチャンジに口述した。
ハーバートが教鞭を執っていた国立中央大学の多くの中国人学生や、年配の男女が、南京でバーバーに会いに来た。最初、ハーバートはバーバーに名所を案内する際、街の比較的静かな地域へバーバーを連れて行っていた。
しかしバーバーはおっしゃった。「いいえ、人の多い場所へ連れて行ってください。」
そこで南京でも、バーバーは貧しい地区の汚れた荒んだ路地を歩き回り、中国の農民たちは驚きの目で彼を見つめた。
ハーバートの教職の任期は終わりに近づいていた。バーバーにお仕えしたい一心で、彼は言った。「ロンドンへ向かう途中、私に大連〔ターリエン〕、満州、シベリア、モスクワ、ワルシャワを訪ねるよう望まれるのであれば、そうさせていただきます。」
バーバーはお答えになった。「結構です。では満州とロシアを経由してマルセイユへ向かい、7月20日にそこで私に会ってください。」2
1932年6月26日日曜日、バーバーはナショナル・シネマで映画を観、再び街の混み合う路地を車で抜け、孔子廟を訪れた。バーバーはその日に発つ予定で、ハーバートは漆塗りの『弥勒仏(Mile Fo)』像を贈った。これは中国人が「来るべき仏陀」を指して用いる呼び名である。
南京で三日間滞在した後、バーバーは午後11時に上海行きの列車に乗った。彼らは朝8時に到着し、28日の午後4時にSSカイザール・イ・ヒンド号でボンベイへ向け出発した。ハーバート・デイヴィーは6日後、ロシアへ向かう途上、大連(中国最北端の港)へ向け出発した。
バーバーは1932年7月1日金曜日午前7時に香港に上陸し、ルストム・E・デサイというパールシーに出迎えられた。バーバーとマンダリは彼の家へ行き、そこではデサイ夫妻がインド料理を用意していた。
脚注
- 1.孫文(1866–1925)は広東近郊で生まれ、香港で医学を学んだ。数年間医師として活動した後、中国の清朝を打倒し共和国を樹立しようと企てた。中国で革命が勃発した後、1911年に中華民国の臨時大総統に選出された。
- 2.バーバーは1933年6月25日にフランス領事館へ赴き、フランス訪問のビザを取得した。
