第10章: 歌い始めた西洋
1932年· ババ 38歳ページ 1,444 / 5,444
船上の乗組員はほぼ全員が日本人であった。船がホノルル港を出帆していく中、ジャズバンドが演奏し、ハワイ原住民の女性たちが歌い踊った。人々はハンカチを振り、花を投げていた。創造の皇帝が『エンプレス・オブ・ジャパン号』に乗船していることを、彼らはほとんど知らなかった!
船室に落ち着いたバーバーは、キムコの手紙を何度も読むように求めた。彼から引き離されている間に味わった苦悩を綴った真心からの愛の言葉に耳を傾けるうちに、彼の目には再び涙があふれた。
一週間後にクェンティンがカリフォルニアへ戻ると、1932年7月14日付の新聞に次の記事が掲載された。AP通信の見出しには次のように記されていた。
沈黙のヒンドゥー教徒、ラジオ演説を延期
東インドの「聖者」として最近この地に到着したと喧伝され、七年間一言も発していないとされるシュリー・メヘル・バーバーは、明日ハリウッドからの全国放送で「世界へのメッセージ」を発することはない。神秘家の秘書クェンティン・トッドはサンタバーバラから電報を打ち、バーバーが「条件はまだ熟していない」ため、沈黙の断食を破る時を翌年二月まで延期することに決めたと伝えた。
一方バーバーはこのような報道の反応を予期しており、ラバーたちに不利な報道について心配しないようにとのメッセージを送った――「私が話せば、全世界は私を再臨したイエスとして認め、迎え入れることでしょう」。
しかしそれまで、多くの人々がバーバーの決定を悪く受け取った。後にガビン・アーサーが回想したように――「バーバーは(沈黙を破らないまま)そのまま発って、ハワイへ、それから香港へ、最後にインドへと向かいました。多くの人々がそれをとんでもない約束破りだと考え、彼はそうすることで多くの追随者を失いました。」
1932年6月19日日曜日、船は午前6時に横浜へ到着した。バーバーはマンダリとともに下船し、彼らは身を休めた。十時に彼らは日本第二の大都市を見物しに出かけた。一時間ほどタクシーで走った後、彼らは軽食をとり、混雑する街路を歩いた。彼らは正午に船へ戻り、二時に出航した。
翌日午前8時に日本の神戸に到着し、そこでバーバーとマンダリは再び下船して市内を散策した。彼らは午後1時に船へ戻り、二時間後に出航した。
二日後の1932年6月22日午後2時30分、中国の上海へ到着し、そこでハーバートとジャルバイの出迎えを受けた。洒落たスーツとパナマ帽を身につけたバーバーは下船し、黄浦江を見下ろす『パレス・ホテル』まで数マイル車で送られた。
