第2章: メルワンの誕生
1909年· ババ 15歳ページ 144 / 5,444
日曜日は休日だったので、クラブの扉は開かれ、会員全員が出席した。しかしその日にはゲームはなく、集まった会員たちは歌の集いを楽しんだ。このことにおいても、メルワンは最も際立っていた。彼の甘く旋律的な声は、私たちの間に独特の喜びを生み出した。タブラやハーモニウムの伴奏なしに、両手でドーラク [インドの太鼓] を叩くだけで、彼はウルドゥー語、グジャラート語、ファルシー語の歌やシャーイリー [連句] を非常に美しく歌い、会員たちは体を揺らし始めた。歌の最中、数人の会員は称賛して「ワー、ワー、メルワン」や「シャバシュ [見事だ]!」と口にした。通行人もしばしばクラブの外に立ち止まり、音楽を聴いて味わった。
ヨーロッパ人のクラブ会員は、リチャード・ディークという名の一人だけで、彼は英語以外の言語を話せなかった。メルワンは、ペルシア語がリチャードの第二言語となるよう、彼に授業を始めた。リチャードは誠実で、心根がよく、聡明な少年で、メルワンより二歳年下だった。しかし悲しいことに、クラブに入って間もなく、突然亡くなった。
コスモポリタン・クラブが存在していた間、クラブのある建物に住んでいたラムナートという少年は、メルワンに非常に引きつけられていた。彼は両親を亡くしたパンジャーブ人で、兄に世話をされていた。ラムナートはメルワンとの交わりにすっかり心を奪われ、毎日メルワンに会えるようにと、ただそのためにクラブの会員になった。二人の十代の少年の間に、親しい友情が築かれた。
ラムナートはクラブで最初の仏教徒だった。彼は敬虔な信仰を持ち、仏教や他の宗教に精通していた。固い信仰をもって、その青年は仏陀世尊の戒めに従おうと最善を尽くし、いつも仏陀の名を繰り返していた。メルワンとラムナートは、共に神を瞑想するため、人里離れた場所へ出かけたものだった。二人の少年は特に、ヒンドゥー教の火葬場であるバーニング・ガートへ行くのを好み、そこに座って神のさまざまな名を繰り返した。二人の少年はたいてい夜にガートへ行き、時には十時近くまで滞在して、神、宗教、霊性について互いの見解を交わした。ラムナートはメルワンとのこうした時間だけのために生きており、退屈に感じる世俗的な話題を嫌っていた。
ある日ラムナートは、ゴータマ・ブッダの生涯について新しく購入した『ブッダ・バグワン [仏陀世尊]』という本をメルワンに見せた。ページをめくっていると、メルワンは仏陀がこう言った箇所に行き当たった。「私が地上に戻るとき、私はマイトレーヤ [慈悲深き者] と呼ばれるだろう。」
