第10章: 歌い始めた西洋
1932年· ババ 38歳ページ 1,435 / 5,444
その時こそ、彼は私がもたらすために来た真理を受け取る用意が整うのであります。
この真理とは、人間が、時間と空間と慣習という幻に完全に縛られた限られた分離的個人ではなく、その本性において永遠であり、その資源において無限であるという認識から成るのです。世界という幻は、彼の想像が織りなす夢であり、彼の意識という劇場で演じられる芝居——彼が同時に脚本家、プロデューサー、監督、そして主演でもある喜劇なのであります。しかし、自ら選んで演じているその役柄への没入は、彼に真の自己を忘れさせてしまい、今や彼は被造物として、自ら作り出した道の上をよろめきながら歩んでいるのです。
[人]は自らの真の本性に目覚めなければなりません。彼は、すべての物質的表現が霊的存在に依存し、そこから流れ出るのだということを見て取らねばなりません。その時、彼はいかなる状況においても揺るがず、平穏でいられるのです。その時にはもはや不況は必要なくなり、消え去るでありましょう。
さて、映画はどのようにして人がこの悟りに至るのを助けることができるでしょうか。映画の性格そのものを変える必要はありません。愛、ロマンス、そして冒険はそれ自体において根源的なものであります。それらは可能な限りスリルに満ち、娯楽性に富み、霊感を与えるものとして描かれるべきであります。訴求する範囲は広ければ広いほど良いのです。
変えられるべきは強調点、すなわち重きの置き方であります。例えば勇気は偉大な美徳でありますが、誤って用いられれば悪徳ともなり得ます。私たちの人生の原動力である愛もまたしかりで、悟りの高みに導くこともあれば、絶望の深みへと落とすこともあるのです。愛の二つの極性とその効果を示す例として、イエスに出会う前と後のマグダラのマリアほど優れたものはございません。1
これら二つの両極の間には数多くの愛のかたちがあり、いずれも良きものではありますが、その中にも他のものより優れたものがあります。私が「良い」「より良い」という語を用いますのは、単にそれらが導いたり付与したりする解放の程度を示すためにすぎません。肉体的欲望を通して自らを表す愛でさえも、個人的な好悪の束縛から人を解き放ち、何よりもまず愛しき者に仕えたいと願わせる程度においては良きものであります。
あらゆる人間関係は何らかの形での愛に基づいており、その愛が本質において永遠であるか一時的であるかに応じて、続いていくか、消滅していくかが決まります。例えば結婚は、それを鼓舞し支える愛のあり方に応じて、幸せにも不幸せにも、人を高めも貶めもし、長く続くこともあれば儚く消え去ることもあるのです。
脚注
- 1.言い伝えによれば、マグダラのマリアは娼婦であった(しかし一部の聖書学者は彼女が娼婦ではなかったと主張する)。
