第10章: 歌い始めた西洋
1932年· ババ 38歳ページ 1,351 / 5,444
バーバーは付け加えた。「あなた方は何年も私と共にいながら、私の仕事には『なぜ』も『何のため』もないことをまだ理解していません。たとえフェラムがあなた方に尋ねたとしても、それはバーバーの望みだと答えるべきでした。あなた方は重大な過ちを犯し、私はそれを正さなければなりませんでした。二度とそのようなことをなさらないでください。これを他の者たちへの教訓としてください。」
バーバーはブアサヘブとヴィシュヌを抱きしめ、それからフェラムを呼び、揶揄して言った。「ヒマの種を食べたあの日に死んでいたほうがよかったでしょう。そうすれば、私に説明を求めることで、たとえどんな軽い形であれ、あなたが今背負った悪しきサンスカーラのすべてから免れることができたでしょう。
今やこれらのサンスカーラは、あなたと共に幾生にもわたって残るでしょう ― 最後の審判の日まで!ですから私は申し上げるのです。あの日に死んでいたら、はるかによかったでしょう、と。」
バーバーは結論として言った。「望むなら私に反対する文章を書いてください!どうぞ続けてください。私は喜びます。」
フェラムは懇願した。「しかし、私はダストゥールの仕事を望んでもおりませんでしたし、今も望んでおりません。彼はそれがあなた様のお仕事だと私に申しました。」
バーバーは答えた。「あなたがそれをなさっても、私は構いません。たとえ全世界が私に反対する文章を書いたとして、それが私にどう影響を与えうるでしょうか?私は私です!私の唯一の助言は、あなたの胸の命じるままに従いなさい、ということです。」
そのときになってようやく、フェラムはダストゥールがバーバーに対して敵対的な宣伝活動を行っていることを知った。彼はダストゥールへの援助をやめ、自分の軽信を悔やんだ。
ボンベイでダストゥールが最近見せた後悔の素振りにもかかわらず、いったんバーバーへの攻撃を始めると、彼はそれをやめなかった。事実、その仕事に資金を出したのは、ほかならぬバーバー自身だった。ダストゥールがナシックにいる間、彼はバーバーから毎月の手当を受け取り続けた。ダストゥールがナシックを去り困窮した境遇に陥った後でさえ、彼はためらわずバーバーに電報で金を求め、バーバーはこれに応じた。
K・J・ダストゥールはインド国内で『メヘル・メッセージ』を通じて宣伝活動を行ったのみならず、海外への書簡を通じても同じく行った。彼の反対は誤解を生み、ハーモンとハンコックでバーバーの仕事のために資金を集めようとしていたストークス、マルコムらにとっての妨げとなった。後に判明したことだが、ジャーナリストのポール・ブラントンをバーバーに敵対するように仕向けたのも、ほかならぬダストゥールであった。しかし、時代が指摘したように、ダストゥールの限られた考えや観念は、師の窯で適切に「焼かれて」いない素焼きの壺のようだった。
しかし、ダストゥールの反対は抑止力にはならなかった。それどころか、それはメヘル・バーバーの仕事を強める結果となった。『メヘル・メッセージ』最終号(1931年10月)の社説の中で、ダストゥールは今やメヘル・バーバーを詐欺師だと考えると述べた。1彼はこう書いた。「今年[1931年]の4月、私はメヘル・バーバーが本物ではなく、自らをアバターとして顕現するという彼のすべての話は虚言であるとの結論に至った。」
ダストゥールがバーバーに対して行った主張がいかに不条理であったかは、彼がある信奉者に宛てた手紙からの次の抜粋によって、ある程度うかがい知ることができる。
私の見るところ、バーバーは自身の磁気的な人格と特定の超能力を頼りに、サッドグルあるいはアバターを装ってきたようである。
脚注
- 1.1932年1月号より、『メヘル・メッセージ』の誌名は『ミスティック・レビュー』に変更された。
