第10章: 歌い始めた西洋
1932年· ババ 38歳ページ 1,347 / 5,444
チャンジがガンディーを訪ねるたびに、その時どれほど忙しかろうとも、ガンディーはやっていたことを中断してチャンジと話し、メヘル・バーバーとその活動について尋ねるのだった。1
バーバーは西洋におけるさまざまなセンター設立の計画を詳細に立てており、インドへの帰国後、アガ・アリはペルシアにおいても修養所のための土地と不動産を手配するよう派遣された。ペルシアでの仕事が完了した後、アガ・アリはボンベイへ戻り、バーバーが呼ぶまで父親と共にそこに留まるよう指示を受けた。チャンジはアリに同行してカラチへ行き、そこでピラマイ、ジャル・ケラワラらと会った後、十日後の1932年1月16日頃にボンベイへ戻った。
バーバーはボンベイのバヌバイ宅に二週間滞在し、そこにいる多くの愛する者たちに自らとの親しい接触の機会を与えた。また、ムンシジやプドゥムジーといった一部の追随者の家も訪れた。
ボンベイ滞在中のある時、バーバーはカーカ・バリアに突然告げた。「肺炎にかかりました!アンチプロジスチン[温めて使うペースト状の塗り薬]を取ってきて、私の胸に塗ってください。」
バーバーは元気そうに見えたため、カーカはこれにかなり驚いたが、指示通りに塗った。それ以上のことは何も起こらず、二日が過ぎた。その後、バチャマイ・ダダチャンジがバーバーを訪ね、二日前に息子のダーラが両側性肺炎にかかり重篤な病状であったと告げた。
バーバーは語った。「私もまた肺炎にかかりました。もし私がかからなければ、ダーラは死んでいたでしょう。」
ダーラは依然としてかなり病が重く、危険なほどの高熱があり、医師たちは望みを捨てていた。バーバーは彼を見舞いに行った。翌日、ダーラの体温は平常に戻ったが、バーバーは高熱に苦しんでいる様子であった。バチャマイは尋ねた。「バーバー、なぜこのようなことをなさるのですか?ダーラは元気になりましたのに、今度はあなたが熱を出しておられます。あなたはあの子の苦しみをご自身に引き受けてしまわれました。バーバー、あの子は死ぬにまかせてください。あなたが苦しまれてはなりません!」バーバーはその女性の勇敢な言葉に微笑み、彼女の愛と無執着を喜んだ。
ソラブジ・デサイがナヴサリから姪のマンサリと他の家族らとともにやって来た。ある日、マンサリはバーバーに彼に仕えられる仕事を求めた。
バーバーは彼女に指示した。「市場へ出てジャムン[スモモの一種]を少し持ってきてください。ただし遠くまで行かないように。近くで見つけて戻ってきてください。」
マンサリは市場へ向かったが、その時季ではなかったため、その果物を見つけるのに苦労した。バーバーの指示にもかかわらず、マンサリは何時間も市内を広く探し回ったが、結局手ぶらで戻ってきた。
スモモを少しでも見つけられればバーバーが喜んだだろうと思ったが、バーバーは答えた。「私の指示に従うことの方が、果物を持って帰ることよりも大切でした。常に私に従うことを忘れずに。私の言うことを守れば、私を喜ばせることになります。」
ケー・ジェー・ダストゥールは西洋への旅行に加えられなかったことに憤慨し、その結果、すでに述べたように、バーバーに反対する文章を書き発言を始め、ついには雑誌『ザ・メヘル・メッセージ』で怒りをぶちまけるほどになっていた。しかしバーバーが戻ると、ダストゥールはすぐに会いに来て、自身がしたことと引き起こした誤解について遺憾の意を表した。
バーバーの帰還後まもなく、メモがプーナからマニとともに到着した。この小さな「光線」は今や常に太陽の近くにいることを切望していた。だがマニが他の女性マンダリと共にアシュラムへ移るまでにはまだ一年あり、メモは唯一の娘をバーバーに引き渡したくないという意思をはっきり示していた。
脚注
- 1.1932年3月25日、マハデヴ・デサイは日記にバーバーについてのガンディーの印象をこう記録している。「彼は卓越した人物である。誰のもとへ赴くこともないのに、人々は彼のもとに群がり、巨額の資金を彼の自由にさせる。」私は言った。「彼の顔には幸福の気配が漂っている。」バプー[ガンディー]は言った。「確かに。そして彼は常に幸福であると断言している。彼は至福のヴィジョンを得たと信じている。結婚したことはなく、肉欲の念から自由であると言う。私は彼が誠実な人物であり偽善者ではないと感じた。」(『マハデヴ・デサイの日記』第I巻、ナヴジヴァン出版社、アフマダーバード、28頁。)
