第9章: 激動の旅
1930年· ババ 36歳ページ 1,145 / 5,444
今回はパンクに加え、バスのうちの一台ではラジエーターが漏れ出し、エンジンが過熱した。道路もまた概して未舗装で凸凹しており、彼らはゆっくり走らざるを得なかった。彼らがどうにかダルワールにたどり着き夕食を取ることができたのは、夜の十時のことだった。1バーバーは町の周辺を散歩し、その後一行は夜を過ごすためにダーク・バンガローへ向かった。ラオサヘブ、ブアサヘブ、チャンジ、チャガンが夜警を分担した。
翌日はヒンドゥー教の祭日マハー・シヴァラトリで、バーバーは男たちに彼のアールティ(グジャラート語とマラーティー語の両方で)を歌うことを許した。二人の運転手とその助手たちもこれに加わった。一行はベルガウムを経由してフブリに到着し、そこではアイヤンガルからの電報が彼らを待っていた。「献身者一同、大いに喜んでおります。どうか1日にお越しください。どこへお迎えに参ればよろしいでしょうか?」返電が送られた。
バーバーは1930年3月1日土曜日にマドラスに到着した。(K・J・ダストゥールは健康が思わしくなかったため、一行に先立ってアルコットから列車で発っており、すでにそこに着いていた。)バーバーは深い愛と敬意をもって迎えられ、彼らが滞在する予定であったサイダペットのブラフミン通り26番地にあるアイヤンガル家の屋敷「メヘル・バヴァン」へと案内された。53歳のC・V・サンパス・アイヤンガルは、二年前にバーバーのことを知った著名な裁判官であったが、これが初対面であった。
翌朝のごく早い時刻、バーバーは、アイヤンガルの娘ラクシュミがボランティアで福祉活動を行っている児童福祉センターを訪れた。彼は一人の子を入浴させ、菓子を配った。それから彼は近くのスラム街を巡り、非常に貧しい一人の女性の小屋に入った。彼が食べ物か飲み物を所望すると、ほとんど何も持たない老婆は、汚れたブリキの器に入った二日前のカンジ(粥)を差し出した。バーバーは少し口にしてから、それを同行していたアイヤンガル家の者たちに渡し、彼らも食べるように告げた。
「これは生命の霊薬です」と、彼は微笑みながら言った。
午前7時半頃、バーバーはアイヤンガルが自宅の向かいに建てた集会堂の開所式を執り行った。バーバーはそこを「メヘル・アスラマム」と名付けていた。2その後、バーバーはそこにピーパルの苗木を植え、こうして来たるべき幾世代にもわたり、人々が彼の愛の涼やかな木陰の下に拠り所を見いだすであろうことを象徴した。アイヤンガル家はまことに祝福されていた。バーバーの幸福は彼らの家のみならず、彼らの胸をも満たした。
午後には、彼はK・S・スリニバサン、ムダリアル・ヴァディヴェル、アンマール・パンカジャムの家々を訪れた。
その晩、マドラスのゴーシェン・ホールでは大規模な集会が催された。ダストゥールは興奮した様子で演説を行った。彼は熱情のあまりこう宣言した。「我々メヘル・バーバーを愛する者たちは、自らの血をもって彼のメッセージを書き記す覚悟をすべきです!彼の神聖なメッセージを人々の間に広めるために、命を懸けようではありませんか!」
これに対し、(マドラスでも彼らに会っていた)ダケーがバーバーに囁いた。「ダストゥールは体重90ポンドもありません――貧血を患っているように見えます。彼にどうやって自分の血であなたのメッセージを書けるというのでしょう?彼にはそれだけの血がないのです!」バーバーは微笑んだが何も言わず、ダストゥールの演説は熱狂的な歓声で迎えられた。
脚注
- 1.ダルワールはダルワドとしても知られている。
- 2.「メヘル・アスラマム」には読書室と、サイダペットの貧しく恵まれない青少年が使うダンベルなどの運動器具を保管する場所があった。裏手には運動場として使える空き地もあった。
