第8章: 活動の終息
1929年· ババ 35歳ページ 1,060 / 5,444
ラムジューは答えた。「私は半ば人間で、半ば獣のようです。しかし、天使の自然な愛とは何なのか、私には十分には理解できません。それはどういうことでしょうか?」
バーバーはこう説き明かした。「こういうことです。母親は自分の子供を愛します。母親はその愛を育まねばならないわけではありません。母親のこの感情はおのずから生じるものであり、自然なものですが、それは神への愛ではありません。同様に、天使たちの愛は多くの徳を含んではいますが、それも神への愛ではありません。それは天使たちに生まれつきのもの——内在的なもの——であり、だからこそ自然な愛と呼ばれるのです」
そしてバーバーは欲望からの自由について語った。
人が欲望から自由でない限り、解脱への準備はできていません。良いものであれ悪いものであれ、欲望はすべて束縛となります。良き欲望は人を黄金の鎖で縛り、悪しき欲望は鉄の鎖で縛ります。なぜあなた方は落ち着かなく感じるのでしょうか?それは、妻や子供、そして世界について千もの思いを抱えているからです。願望や欲望から自由であるべきなのに、それらは現に存在しているのです。それらを作り出すものは何でしょうか?これらの欲望を欲しているのは何で、これらの思いを思うのは何でしょうか?心(マインド)です!
欲望が続く限り、自由はありません。完全に無欲となった者は、王の中の王となります!しかし人々は、どのようにすれば無欲になれるのかをまったく知りません。欲望からの自由こそが、真の人生です。自由を享受するためには、欲望を超えていかねばなりません。この自由は決して想像することができません。それは心(マインド)を超えたものなのです。心(マインド)が欲望を生み出し、その心が続いて死なない限り、人は自らをそこから引き離して自由を享受することはできません。
魂は鳥のようなものです。あらゆる欲望が消え去ったとき、その鳥の目は開かれます。その鳥は神を見、神と一つになります。私こそ、その鳥がその目を開いたときに見る、その神なのです。しかし欲望がその鳥を盲目にしているために、私がすぐ目の前に立っていてもその鳥は私を見ることができないのです。
バーバーは続けて言った。
至福は、幸福や悲嘆とはまったく別物です。幸福や悲嘆は心(マインド)の[経験を通じて]得られるものです。至福はまったく別のものであり、心(マインド)が死んだ後に魂が神を通じて得るもの、それが至福なのです。幸福や悲嘆は心(マインド)によるものですが、至福は魂のゆえに存在します。至福は言葉で言い表すことができません。それは捉えることもできません。それは体験されるべきものなのです。
「ですが、なぜ常に苦しみばかりがあり、幸福がないのですか?」とマンダリの一人が尋ねた。
