第8章: 活動の終息
1929年· ババ 35歳ページ 1,042 / 5,444
放棄を得るとは、自己を失うことです。そして、あなたのあらゆる思考と言葉と行いが愛しき神を現存させ、低次の自己を不在にさせる時にのみ、あなたは自己を失うことができるのです。
ドゥリアでは、一人のバラモン司祭がマンダリの部屋に隣接する部屋に住んでいた。毎朝、彼は早起きしてシャーストラ(経典)のヒンドゥー教のシュローカ(詩節)を大声で唱えていた。1929年7月14日日曜日、マンダリがバーバーの前でその司祭について不平を言っており、バーバーはこう述べた。
世界中、どこにおいても、祈りや礼拝の名のもとに、この種の無益なお喋りが続いています。それによって得られるものは何もありません。要も実体もないのです。それを実践する者たちは、そこから何一つ得るものがありません。彼らは一瞬でも、大きな騒音が結果をもたらすと考えているのでしょうか?何年もの間、これが続いてきましたし、これからも何年も続くことでしょう。幾代もの長きにわたり、バラモン、マウルヴィ、ダストゥール、司祭たちは雇われた祈りを唱え続けてきており、実際にそのような戯言の対価まで支払われているのです!しかし、その結果として誰一人として、僅かな利益さえ得てはおりません。
その理由は、彼らの誰一人として真摯に、また真心を込めて行ってはいないからです。彼らの祈りは、胸の伴わない声帯の無益な囀(さえず)りに過ぎません。彼らの心の知性、注意、思考はあちこちを彷徨い、そしてこの無意味な呪文が続くのです。澄んだ心と全き誠実さをもって行われれば、その人の祈りは真っ直ぐ神に届きます。神は誠実さと開かれた胸を望みます — 無意味なお喋りの外面の見せかけではありません!
世界のいずれの片隅からであれ、心からの神の想起は — たとえ最悪の罪人や、最も価値なき卑しい者によるものであれ — 直ちに神の耳に届きます。あのバラモンの詠唱の音は、これほど近くにあろうとも、私には聞こえません。それが私に触れないがゆえに、私は聞き取ることができません。それは私には何の影響も及ぼしません。いずこから発せられたものであれ、大声で不誠実なあらゆる種類の「祈り」は、私たち師たちを動かすことはありません。なぜなら、それは単なる騒音であり、心も胸も伴わないからです。そのような乾いて空疎な祈りは、どれほど大声であろうと、長かろうと、長年にわたり行われようと、私たちに何の影響も与えません。反対に、誰かが純粋にそして誠実に私に祈るならば、どれほど遠くから、どれほどゆっくりと、または静かにであろうと、私は直ちにそれを聞き取り、繋がりが築かれます。
例えば、長距離電話局を考えてみてください。
