第39章: ドラッグ禁止
1965年· ババ 71歳ページ 5,171 / 5,444
サハヴァスは中止されたが、そのために労した一人ひとりが注いだ力と、その計画の中でバーバーに集中された思いが、彼の普遍的な仕事のために用いられたことは疑いなかった。9月4日に世界中へ送られた彼の電報への返答として、西洋の人々がバーバーの決定を謙虚に、全身全霊で受け入れるとの電報が返ってきた。
バーバーは彼らの返答に心を打たれ、喜んだ。そして厳しい通信禁止にもかかわらず、彼の恋人たちへのいくらかの慰めとして、1965年9月8日、マニの『ファミリー・レター』を通じて、彼女にこう書くよう指示した。「バーバーは、西洋の恋人たち一人ひとり、古い者も新しい者も、若い者も年老いた者も、男性も女性も子供も、皆が彼に直接一通の手紙を書くことを望んでおられます。」
数か月の間、バーバーはノシール・イラニがメヘラザードに滞在することを許していた。しかしノシールは、独立心が強く、傲慢で非協力的な性質だったため、そこの日課になじまなかった。彼はまたホールで絶えず話し続け、それがバーバーの妨げになった。あまりにひどかったため、バーバーは彼がホールにいる時はいつも沈黙を守らせた。男性のマンダリは皆、彼を受け入れ、自分たちの一員として扱おうと最大限努力したにもかかわらず、彼の態度にうんざりしていた。
ノシールはしばしば、いわゆる「健康上の理由」と気分転換のために、サコリのウパスニ・マハラジのアシュラムと、ケドガオンのナラヤン・マハラジのアシュラムを訪れる許可をバーバーに求めた。バーバーは常住するマンダリの誰にも敷地を離れてほしくなかったが、1965年7月、ノシールはサコリとケドガオンを訪れると言い張った。バーバーは彼が行きたい所ならどこへでもメヘラザードを離れることを許したが、1967年1月以前にメヘラザードへ戻ってはならないという条件を付けた。ノシールは去ったが、二週間後に戻ってきた。
ある時、バーバーはノシールにボンベイへ行って両親と兄弟と暮らすよう勧めたが、彼はこれも拒んだ。ついに1965年9月5日、バーバーはノシールに、メヘラザードで滞在していた部屋から持ち物をすべて運び出し、近くのラタンシャー・ギャラの小屋へ移るよう指示した。1彼は毎日カンドバの丘(セクルージョン・ヒルの向かい)を歩いて上り、毎朝三時間、神の名を繰り返すよう指示された。バーバーは彼が正午に昼食を取りに、また午後6時30分きっかりに夕食を取りにメヘラザードへ来ることを許したが、どちらの食事の後もすぐにメヘラザードを離れなければならなかった。
脚注
- 1.ラタンシャー・ギャラはその二年前、1963年8月19日に亡くなっていた。
