第39章: ドラッグ禁止
1965年· ババ 71歳ページ 5,115 / 5,444
アディ・ジュニアは1965年1月15日にロンドンへ戻るために発ったが、フラニー、ダラ、シリーンは3月1日までインドに留まり、もう何度かメヘラザードを訪れることが許された。
1964年以降、アマール・シン・サイガルは自分がどこにいようと、オール・インディア・ラジオでヒンディー語による講話を行った。彼の講話はデリー、ボーパール、ハイデラバード、パトナなどの放送局から放送された。バウはサイガルのためにこれらの講演原稿を書き、メヘラザードから彼へ郵送するのだった。しかしいくつかの論争のため、インド政府は存命中の聖者やグルに関する事柄を放送することを禁じていたので、バウは正直、誠実、兄弟愛、愛といった一般的な主題で講演原稿を組み立て、その全体にメヘル・バーバーの言葉を織り込んだ。バーバーとメヘラザードの全員はラジオでその講話を聴き、サイガルが「……そしてアバター、メヘル・バーバーはこう言われています……」と言うたびに胸を躍らせるのだった。
サイガルは1965年1月8日午後1時30分にバーバーに会うためメヘラザードを訪れ、その日の夕方にはアフマドナガル・センターで講演を行った。その翌日の夜9時には、市内のガンディー・マイダン(広場)で大群衆を前に演説を行った。
アディ・シニアはグントゥールのN・V・ラマナイア、プーナのラマクリシュナンとバヴサルとともに、自分の車でサイガルをメヘラザードまで連れて来た。ラマナイアは1959年1月にグルプラサードで初めてバーバーのダルシャン[聖者との面会]を受け、それ以降は機会があるたびに定期的にバーバーを訪れていた。彼は開設から一年足らずのグントゥール・センターの活動を広げたいと熱望しており、ラマナイアはプーナ・センターの運営についてラマクリシュナンから助言を受け、いくつかの文献を集めるために、12月にプーナを訪れていた。そのとき彼はラマクリシュナンに、ミーラン・スタジオで撮影された写真にバーバーから祝福をいただき、グントゥールの自分たちのセンターに送ってほしいと頼んでいた。
ところが代わりに、ラマナイアにはバーバーが彼を直接メヘラザードへ呼んでいるという電報が届いた。
バーバーはその写真に触れ、こう言った。「これは特別な事例です。私自身の写真を私が祝福するのですから。私はあなたと共にグントゥールへ帰り、私自身の計画に従って、私の働きを自ら行いましょう。」
この写真はその後、その年のバーバーの誕生日にセンターへ安置された。
ホーシャン・バルチャ率いるナヴサリからのバーバー愛好者10名の一行は、1965年1月10日日曜日の午前11時にメヘラザードでバーバーに会った。ルストム、ソラブ、シェルーもその日の訪問者であった。バル・ナトゥも到着し、10日間メヘラザードに滞在することを許された。
