第36章: 無関心であることに関心を持つ
1962年· ババ 68歳ページ 4,814 / 5,444
弔意を伝えるためにアディへ手紙を寄せた人々に、彼はこう返答した:
これはたいへん幸せな別離でした。母グルマイの旅立ちについて思いを巡らせるほどに、彼女が愛しいバーバーの無限の胸に永遠の場所を望み、そしてそれを得たという思いに、いっそう大きな喜びを感じます。
ジャルバイは一九六二年八月二十一日、東西集会の輸送手配を協議するためにプーナからやって来た。ノシール・イラニは二十三日にメヘラザードでバーバーに会った。
八月二十六日日曜日、バーバーはメヘラザードでアフマドナガルとプーナの数名の働き手たちと特別な会合を持った(彼らはジョセフ・ハーブの車で連れてこられた)。会合は三時間続き、東西集会の手配に関する重要事項が確定された。手配にかかる費用の見積もりが作成され、バーバーの承認を得るために提出された。グルプラサード内部の手配(パンダルや借りた椅子、マイクと電気設備、便所、給水、日々の労務費)には少なくとも七千ルピーは必要であろうと見積もられた。バーバーはこの費用負担を分かち合う近しい九人のラヴァーを選んだ。ジョセフ・ハーブは千五百ルピー、ナリマン・ダダチャンジ、ホシャン・バルチャ、キシンチャンド・ガジワニはそれぞれ千ルピー、ソラブジ・シガンポリア、メヘルジー、バプサヘブ・シンデ、ミヌー・デサイ、ミヌー・バルチャはそれぞれ五百ルピーであった。
八月三十一日、バーバーはさらに二編の談話を口述したが、最初のものは「ラヴァーと愛しいお方」についてであった。
神は愛です。そして愛は愛さねばなりません。そして愛するためには、愛しいお方がいなくてはなりません。しかし神は無限かつ永遠なる存在ですから、神が愛すべき相手は自身のほかには誰もいません。そして自身を愛するためには、神はラヴァーとしての自身が愛していると想い描く愛しい者として、自身を想い描かねばなりません。
愛しいお方とラヴァーということは、分離を意味します。そして分離はあこがれを生み、あこがれは探求を引き起こします。そして探求がより広範でより強烈になればなるほど、分離はより大きく、あこがれはよりすさまじいものとなります。
あこがれが極みに達したとき、分離は完全なものとなり、愛がラヴァーと愛しいお方としてご自身を経験できるようにという分離の目的が果たされ、合一がそれに続きます。そして合一に至ったとき、ラヴァーは、自分こそがずっと愛してきた、合一を望んできたまさにその愛しいお方であったことを知り、自分が乗り越えた一切の不可能な状況が、自分自身へと至る道に自ら置いた障害物であったことを知るのです。
合一に到達することがこれほどまでに不可能なほど困難であるのは、すでに自分そのものであるところのものになることが不可能だからです!合一とは、自分自身を唯一なるお方として知ること以外の何ものでもありません。
