第31章: インドの大地に流れた血
1957年· ババ 63歳ページ 4,208 / 5,444
しかし動きを最小限に制限している現在の痛みでは、そのようなサハヴァスは実現不可能であった。そこで彼は、二つの新たな治療の道を試してみると述べた——一つはボンベイのアーユルヴェーダ医による治療であり、それが奏功しなければ、ゴヘルが連絡をとっていたカルカッタの米国で訓練を受けたカイロプラクターによる治療を受けるというものであった。
バーバーは言った——
11月末までに〔治療によって〕痛みが和らげば、私は2月にインドで12日間にわたる東西合同のサハヴァスを与えるつもりです。もし痛みが今のままに残るのであれば、私は東洋と西洋を分けるつもりです。今の状況下で合同のサハヴァスを行うことは大きな負担となるからです。そして1958年2月には、東洋の人々にだけサハヴァスを与えるつもりです。西洋のサハヴァスは、1958年5月にマートル・ビーチで、私の愛する者たちにだけ与えるつもりです。以前のような公の宣伝も、「オープン・デイ」のダルシャンも行いません。
バーバーはヨーロッパやイギリスへは行かず(そこの愛する者たちはマートル・ビーチへ来るべきである)、オーストラリアへは行くつもりであると示した。
会合が終わってから、全員が立ち去る前に、パチーシのボードゲームが一局行われ、手に汗握る引き分けに終わった。1
1957年9月30日、ピンパルガオンの村人のうち101名の年配者がメヘラザードへ連れて来られた。以前にハンセン病患者や子どもたちに対して行ったように、バーバーは老いた男女ひとりひとりに頭を下げ、自らのプラサードとして10ルピーとチャガンが用意したラッドゥを与えた。サロシュは、その様子を見てもらおうとD.S.P.、コレクター、シビル・サージョンを連れて来たが、彼らは遅れて到着した。それでもバーバーは彼らと数分間話を交わし、それぞれに一つずつラッドゥをプラサードとして与えた。
アディ・シニアは10月1日の午後2時半、40日間の真夜中の祈りを終えたグルマイを連れて来た。ホシャング・バルチャは翌日に訪れ、パンクラジは3日にメヘラザードで三日間滞在するために、シガンポリアは4日に来訪した。アディは定期的にサコリへ遣わされ、バーバーの伝言をゴダブリ・マイやそこの他の人々に伝えていた。彼は10月6日にそこへ赴き、翌日A. C. S. チャリを伴ってメヘラザードでバーバーに報告した。
バーバーは毎日30分、カイコバードと共に仕事を続けた。カイコバードは、バーバーがどれほど偉大な仕事を行っているのか少しも分かっていなかった。彼はただ神の七つの名(「ヤ・イェズダン、アフラ・マズダ、アッラー、イシュワル、パラマートマ、全能の神、パルワルディガル!」)を唱え続けるばかりであり、バーバーは一つの名が呼ばれるごとに彼の足の上に頭を載せた。
この時期、夜警の一人サヴァク・コトワルは健康を損ねていたため、一週間ボンベイへ行くことを許された。そこで、バウが毎日午後4時から翌朝4時までを、グスタジが午前4時から6時までの二時間を、それぞれ夜警として務めた。グスタジもまた沈黙を守っていたので、バーバーと彼は手話で言葉を交わしており、バーバーはそれをひどく楽しんでいた。
脚注
- 1.パチーシはパルチーシに似た遊びである。布製の盤の上で、伝統的に巻貝の貝殻をサイコロのように使って遊んだ。バーバーは自分の番がくると、自ら貝殻を振った。貝殻が開いた側を上にして落ちれば一マス前進、閉じた側が上に出ればゼロ、つまり動きがないことを意味した。一度に二人だけで遊んだ。普通はバウが盤上でバーバーの駒を代わりに動かしていた。
