第31章: インドの大地に流れた血
1957年· ババ 63歳ページ 4,202 / 5,444
そのときには、状況が一見してそれを離してよいと正当化するかのように見えるため、皆さんは私のダーマン(daaman)[衣の裾]をつかみ続けることができなくなるかもしれません。私は限りなく慈悲深いゆえに、皆さんが私の言葉を覚え、力を尽くして私にしがみつくよう、同じ主題を何度も繰り返して語ります。例えば、突然の恐ろしい地震に遭えば、誰しも自分の命を救おうという盲目的な望みのうちに走り出すでしょう。瞬時に家族と全財産を忘れ、自分が何をしたかを悟るより前に、それらを捨てて逃げてしまうのです。
起こるべきことは起こるでしょう。これが原理、すなわち私が「必然の法則(Law of Must)」と呼ぶもの、宇宙的幻影がその上で繁茂する法則です。それはあたかも、無始の始まりから無終の終わりに至るまで、用意され完成された幻影のフィルムが絶えず映写され続けているかのようです。もし私のダーマンが皆さんの手から滑り落ちるよう定められているのであれば、そうなるでしょう。しかし、警告するのは私の務めであり、警戒し続けるのは皆さんの務めです。幻影の中では、皆さんはいつ何時にでも死ぬ可能性があります。幻影の生に保証はありません。なぜなら、すぐ次の瞬間に何が起こるかを誰も確かに知ることはできないからです。神を除いては、すべては幻影です。この世界とそのあらゆる事柄は、あまりにも実体がないため、それらに実体がないと言うことすら無意味なほどです!
私を実現するのは決して冗談ごとではありません!内なる視力を備えた者たち、そしてすでに確立された聖者たちでさえ、私を測り知ることはできません。これは、最も低きものから最も高きものに至るまでのあらゆる幻影と、唯一なる実在との間に、ファナ(fana) [完全な消滅]が立ちはだかっているからです。シャリアト(shariat)、すなわち自らの宗教の戒律と教えに厳格に従って生きることの実践は、人をタリカト(tariqat)、つまり六つの段階を持つグノーシス(霊知)の道へと導くことがあります。しかしタリカトは、ファナにおいて終わります。
例えば、皆さんの体が皆さんの殻であり、グノーシスの六つの段階を進むあいだに、その体を皆さんが完全に食べ尽くさねばならないと想像してみてください。皆さんはこれを、各段階ごとに、自分自身の口で一片ずつ行わねばなりません。ついに、最後の段階では、皆さん自身の口がそれ自身を食べねばならないのです!1これが私の言う最終のファナの意味であり、また、これゆえに私の助けなくして私を実現することは不可能であると、皆さんに申し上げているのです。
私はアバターの各時代において相当に異なって見えるとはいえ、私は始めから終わりに至るまで常に同じであり、常に同じであり続けます。私は、人々が同時に私が生きている神聖な生を生きるのを助けるために、人々が生きている世俗の生を生きます。人々の胸に宿るために、私は何の宗教的組織も必要としません。むしろ反対に、宗教的組織のほうが、私の後に確立されるために私を必要とするのです。私を愛さない者は私を理解できず、私の神性を実現しない者はそれを理解することができません。
脚注
- 1.始原の時に自分自身を食べてしまった「いたずら好きなひよこ」の物語については、『無と全』9-12頁を参照。
