第31章: インドの大地に流れた血
1957年· ババ 63歳ページ 4,162 / 5,444
バーバーは彼らの諍いを解決するために二人を呼んだのだった。プカル、マトラ・ダッタ・シャストリ、メヘルダースも呼ばれた。バーバーは双方の言い分を聞いたうえで、彼らに助言を与えた。二人ともそれぞれの愚かさを悔い、バーバーの望み通り、心から互いを抱きしめ合った。彼らは26日に発った。ハミルプルへ戻ると、両家はメヘル・バーバーを讃えて盛大な祝宴を開き、数百人の貧しい村人たちに食事を振る舞った。
25日から、サロシュは軍病院のマッサージ師が毎日午後4時にメヘラザードへ通いバーバーを按摩するよう手配した。夏の盛りであり、マンダリ・ホールはあまりに暑かったので、数日間、バーバーは午後の一、二時間をマンダリ・ホールの向かいにあるコテージの中の間でマンダリと共に過ごした。そこには寝台が置かれ、部屋を冷やすために床に水が撒かれた。
3月26日、レワの副総督ティルマラ・ラオがメヘラザードへ来て、自分が手がけた『神は語る』のテルグ語訳をバーバーの足元に捧げた。バーバーはその原稿に触れたうえで彼に返し、出版するよう促した。
彼はティルマラ・ラオに対してこう述べた。「あなたの努力と愛に、私はとても喜んでいます。あなたは高い地位にありながら、私を忘れませんでした。ですから、そのように私のために生きてください。そうすれば、あなたは真にインド政府とそれ以上のものに仕えることになるでしょう。」
ティルマラ・ラオは言った。「私はただあなたの祝福のみによって総督になったのですから、どうしてあなたを忘れられましょうか?」
「たとえあなたが総督の職を解かれることがあっても、それを私の望みと受け取って幸せでいなさい。心配はいりません。」
ティルマラ・ラオは嬉しそうに帰っていった。
1957年3月28日、ドンによってケトカル医師がメヘラザードへ連れてこられ、医師はバーバーに痛みを伴うノボカインの注射を施した。30日、ショラプール出身のR・チャクラパニが面会を許された。彼は1955年のサハヴァスで7日間の断食を行うよう選ばれた者の一人であった。バーバーは彼に、ナグプールかプーナに留まり、沈黙を守り、一日に一度だけ食事をし、真夜中に一時間の祈りを唱えるよう指示したが、敬礼や贈り物を受け取らないようにとも戒めた。
4月3日、マンジル・エ・ミームの年老いた理髪師ガンガラームが思いがけず歩いてメヘラザードまでやって来た。ジャルバイもその日に到着した。夜警の任務を手伝うよう呼ばれていたためである。
1957年4月初めまでには、バーバーは二本の杖だけを頼りにしばらくの間歩けるようになっていた。大抵の場合、彼は引き続き松葉杖を使い、時折車椅子を用いた。また、階段を昇り降りする練習もしていた。しかし、その回復ぶりにもかかわらず、彼の股関節の痛みは続いていた。このため、医師たちは追加のレントゲン撮影が行われるまで、歩く量と体重をかける度合を大幅に減らすよう助言した。
事故がマンダリと彼自身に大きな負担を強いていたため、1957年4月5日、バーバーはアディを通して、1957年11月のサハヴァスを1958年1月へ延期する旨を人々に知らせる回状を出させた。同時にバーバーは、9月にナヴサリ、デリー、デーラドゥーン、カルカッタ、アーンドラ、ナグプール、ハミルプルといったインド各地のセンターを訪れる可能性があると示した。
