第26章: 驚くべき3週間
1954年· ババ 60歳ページ 3,577 / 5,444
それは真の「私というあり方」の無限なる本来の状態を経験します。このエゴは真のエゴと呼ばれます。偽りのエゴの中でマルコムが「私はこの肉体である、あるいは私はこのエネルギーである、私はこの心である」と言ったように、今やマルコムは「私は神である」と言うのです。
こうして、自然なエゴ、偽りのエゴ、そして真のエゴが存在することになります。胸の清らかな者だけが、神を見ることができます。これがパードムの尋ねたこと——胸が清らかであるとはどういう意味かということです。私が説明してきたことは、皆さんをどこへも連れて行きません。なぜなら、心が把握しえぬ御方を、どうして説明できましょうか!
決して地上には降りてこないと言われる極楽鳥がいます。ハーフィズはこう言いました——
神は極楽鳥のごとし。
思いの網を広げて、その御方を捕らえようとしてはなりません。
その網の中には、心のほかには何も見出されないでしょう。
それゆえ、こう言われています——ただ愛しなさい、そうすれば神は皆さんのものとなります。
考えること[知性]ではなく、愛なのです。ですから、私がどれほど説明しようとも、神は説明されえないのです。しかし、もし私が望むなら、ほんの一瞬で皆さんは神を見、そして知ることになるでしょう。
ラーマクリシュナ[カルカッタのサッドグル]はベンガル語以外、どの言語も話しませんでした。彼は読むこともできず、いわゆる文盲でした。それでも一瞬のうちに、彼はすべてを知る境地を得ました。非常に学のある人々が群れをなして彼の周りに集まりましたが、彼の話すことを一つも理解できませんでした!ですから、愛しなさい!
秘訣は一言で言えば——皆さんが居るところに、神は居らない、ということです。理性的な心を使えば使うほど、理解は乏しくなっていきます。説明し、理解するためには、皆さんが居なければなりません。そして皆さんが居れば、神は居らないのです。ですから、説明と理解とは、神を引き寄せるどころか、追い払うことを意味するのです。皆さんが「理解した」と思ったそのとき、皆さんは理解していないのです!
私の唯一にして同じ愛しいお方は、それぞれ異なる姿と装いで、異なる名を持って現れ、いつも違うように見えますが、それでもなお、その御方は唯一にして同じ愛しいお方なのです。
皆さんは、すでに在るところのものに成らなければなりません。皆さんは神ですが、神に成らなければならないのです。キリストは自らをへりくだらせ、これを教えるために自ら十字架にかけられたのです——愛を通して、皆さんがすでに在るところのものに成りなさい、と。
これを示すために、バーバーは(ラーマの降臨期の)ジャナク皇帝とその弟子カリヤンに関するこの物語を語った——
シーターの父であるジャナク皇帝は、完全なる導師としても知られていました。彼の治世に、帝国の外から来た一人の若者がおり、神を見たいと切実に願っていました。「私は必ず御方を見なければなりません」と彼は言いました、「これらの外的なものを見るのと同じくらい、はっきりと」。
