第24章: デヘラ・ドゥン、1953年
1953年· ババ 59歳ページ 3,395 / 5,444
私を愛しつつも、敬虔にかたわらに立ち、恍惚とした賛嘆に浸る者たちには、私は手に入れられません。私を嘲り、軽蔑をもって私を指さす者たちのためにも、私は存在いたしません。幾千万もの群衆が私の周りに群がることが、私の存在する目的ではありません。私は、群衆のうちに散らばりながら、静かに、見栄を張ることなく自らの一切——身体、心、所有——を私に差し出す、選ばれたわずかな者たちのためにあるのです。私はさらに、自らのすべてを差し出した後、自分が差し出したことについて二度と思いを巡らさない者たちのために存在するのです。自らの放棄という思いさえも放棄する用意があり、激しい活動のただ中にあっても絶えず警戒を保ち、私の一瞥や合図ひとつによって真理の大義のために命を投げ出すおのが順番を待ち望む者たち——そうした者たちはみな私のものなのです。最悪の災いをも自ら進んで朗らかに受けて立つ不屈の勇気を持ち、私への揺るぎない信を抱き、自らの幸福と安楽を犠牲にしてでも私のごくわずかな望みをも遂げようと熱心な者たち——彼らこそが、まことに私を愛しているのです。
私の眼から見れば、世俗の責務を名誉ある務めとして引き受け、堂々とこれを果たす無神論者の方が、神を篤く信ずると自任しながら、神の法によって自らに振り分けられた責務を回避し、本来であれば自身の永遠の解脱を告げ知らせるはずだった苦しみから逃れようとサドゥ、聖者、ヨーギを追い回す者よりも、はるかに恵まれているのです。片方の目を肉体の魅惑的な快楽に張り付けたまま、もう片方の目で永遠の至福のひらめきを見ようと期待することは、不可能であるばかりか、偽善の極みでもあります。
私があなた方に知ってもらいたいことのすべてを、あなた方が一度に理解することを、私は期待することはできません。幾時代にもわたって、ときに応じてあなた方を目覚めさせるのは私の務めであり、私はあなた方の限られた心の中に種を蒔きます。その種は、しかるべき時を迎え、あなた方のしかるべき注意と配慮を伴うとき、必ずや芽生え、繁り、本来あなた方が得るべき真知の実を結ぶことでしょう。
他方、もしあなた方が自らの無知に導かれて、自分の道を行くことに固執するならば、誰もあなた方の選んだ進み方を止めることはできません。それもまた進歩であり、いかに遅々として苦痛に満ちていようとも、結局のところ、無数の生まれ変わりを経た後に、私が今あなた方に知ってもらいたいと願っていることを必ずあなた方に悟らせるはずだからです。
