第24章: デヘラ・ドゥン、1953年
1953年· ババ 59歳ページ 3,291 / 5,444
これらの猛攻に躊躇なく勇敢に立ち向かい、その試練にひるむことなく耐え抜く幸運な者たちは、ついには神聖な栄光の共有者であり相続者となるのです。そして、これら一見災難に見えるが避けることのできない試練から逃げ出す者たちは、自分の明け渡しが誠実で全身全霊のものであったのか、それとも利己的な動機に深く縛られていたのかを、自らの行いによって証明することになります。
人々は概して、自分のすべて、すなわち持ち物、身体、心のすべてを完全なる導師に完全に明け渡すということが実際に何を意味するのか、極めて表面的にしか理解していないのです。自分は完全に師に明け渡したという弟子の自己満足的な信念は、無知と偽善に由来するものです。なぜなら、その言葉の意味を文字通りに量り、深く熟考するならば、自分の持ち物、身体、そして心、つまり自分の存在の核そのものが完全に師に委ねられたとき、心はすでに師のものとなっているので、自分自身の思いがただ一つであっても入り込む余地はないことが分かるからです。
動くことさえ偽善となるでしょう。呼吸することさえ偽善となるでしょう。なぜなら、身体はすでに明け渡されているからです。しかし、このような文字通りの不可能な明け渡しを、師が弟子たちに求めているわけではありません。弟子に求められるのは、師の意志への完全かつ絶対的な明け渡しです。それが弟子自身の気質の命じるところとどれほど反していようとも、生まれつきの性向や信念にどれほど対立していようとも、限られた心の領域においてどれほど受け入れがたいものであろうとも、です。
彼らの一人を指さして、バーバーは例を挙げた:
仮に私が明日あなたを皇帝にし、その翌日には掃除夫のような身分にまで落としたとしましょう。あなたは私の判断に対する揺るぎない信頼をもって、その両極端を受け入れなければなりません。あなたは常に、いつどんな役割が与えられても、揺るがぬ平静さをもってそれに適応するよう努めねばならず、ただ師の意志を遂行することだけを心に留めねばなりません。
他の者たちの方に向き直って、バーバーは続けた:
弟子にとっては、従うことで十分なのです。弟子としてのあなた方の務めは、まるで自分自身ではないかのように従うことです。それは、自分自身を完全に師に捧げたとき、まさしく文字通りの事実となります。あなた方の限られた知性や推論を、決して師の意志に対抗させようとしてはなりません。師が語ること、行うことを何であれ自発的に受け入れ、また師に対する疑問を抱かぬ従順さがあれば、あなた方が直面することになるかもしれぬ、いわゆるあらゆる危機を安全に切り抜けさせてくれるでしょう。
