第23章: 燃えるような自由な人生
1952年· ババ 58歳ページ 3,194 / 5,444
彼らは、歴史についての自らの知識に照らし、また未だ生まれざる未来の可能性に対する自らの洞察に照らして、現在を形作ろうとします。しかし限られた知性は、始まりもなく終わりもない量を把握する力を持たぬため、純粋に知的な視点は、たとえ最良の状態にあっても、必然的に部分的・概略的・不完全であり、ある意味では誤りすら帯びたものに留まります。
知的な視点は、計画された行動にとっては実用的であり、ひいては不可欠でさえあります。しかし胸のより深き智慧や霊のより澄んだ直観を欠くなら、そのような知的視点は、不確かさの刻印を帯びた相対的真理しか与えてくれません。知性のいわゆる計画された行動の背後には、意識の縁にすら現れていない数多の強大な力が控えており、その行動はまた、そのいわゆる計画の視野からは全くかけ離れた、多くの貴重で予期せぬ結果を実際にもたらします。言い換えれば、知的な計画とは結局のところ大半が名ばかりの計画にすぎず、その中に含まれる真理は、演じ手たちが全体のゲームに実際に与っていたと感じることを正当化するのに必要なだけのものなのです。
実のところ、進化的創造の中のすべては、ひとえに神の無限の力によって成し遂げられており、神は永遠の沈黙のうちに——いわば幕の背後で——舞台の束の間のスポットライトのもとにいる大方の演じ手たちには、知られず、感じられず、疑われさえしないままに働いているのです。ある者たちは、導師たちの恩寵もしくは神の恩寵を通じて、自らの存在の内に秘められた神聖なる愛の泉を解き放つことに成功します。その愛は、無限なる神性についての限りなく確かな理解を顕にし、その神性はその永遠性のうちに、見かけ上始まりなき過去と見かけ上儚き現在のみならず、見かけ上終わりなき未来をも包摂しているのです。
時間の広がりが見かけ上無限であるということも、時間それ自体が究極的に非実在であるのと同様、究極的には非実在なのです。絶対の真理の意識的な悟りを可能ならしめる最終の霊的理解において、時間の過程の幻のごとき無限性は、神の限りなき生命と存在の真の永遠のうちへと取り入れられます。神についての限りなき理解のうちに意識的に確立された「神-人」たちは、過去・現在・未来を知ることができます。しかし彼らにとって、永遠の束の間の影についてのこの知識は、神——すなわち無限なる理解と無限なる真理あるいは実在——の測り知れぬ深みに完全に融合することに比べれば、はるかに重要ではないのです。
