第21章: マノナッシュ
1951年· ババ 57歳ページ 2,968 / 5,444
バーバーが言葉の冒頭で「私は感じる」という表現を用いたことは注目すべき点である。新生活において、バーバーは決して「私は君に告げる…」と断定して自分を主張したり、「これこれはこうである」などと言ってある状況についての自らの知識を示したりすることがなかった。代わりに彼は、「私は感じる…」または「これは事実だと私は思う」と書き取らせるのだった。バーバーはある種の役割を演じきろうと最善を尽くしていただけでなく、自分は今やこの新生活では一介の普通の人間にすぎないと繰り返し述べたとおり、ふつうの人間とまったく同じように感じてもいた。
1951年2月4日日曜日、バーバーは逆説的にラムジューにこうおっしゃった。「私の旧生活で当然のものとして感じていたすべてのものに関して空虚であると感じることが、私の新生活においては当然のことなのです。」
ボンベイ郊外のマヒムで、一人のジャラーリ・マストがラーピー(小さな鎌)でラムジューを二度殴った。ラムジューは左目の上から血を流して怪我を負い、病院へ運ばれて縫合を受けねばならなかった。
5日、バーバーはマスト接触と作業を望みどおり「100パーセント」自分の満足のいく形で終え、エルチ、ペンドゥ、バイドゥル、グスタジとともにマハーバレーシュワルへ戻った。
ハイデラバードとボンベイで接触した合計93人のマストについて、バーバーはこう述べた。「マストの五分の一は最高の境地にある者であり、五分の二は高い境地の者であり、残りの五分の二は神に酔った者たちでありました。」
ラムジュー、パドリ、アディはアフマドナガルへ戻った。メヘラザードの管理人マドーが急な個人的事情で辞めねばならなくなったため、1951年3月、パドリがそこへ移って住み、その敷地を見守った。
ちょうどこのときミヌー・カラースがボンベイを訪れており、1月30日午後7時にアシヤナで短い時間バーバーに会うことを許された。彼は2月3日に再び訪れ、マリン・ラインズ駅近くの「グレート・ロイヤル・サーカス」を観るために、バーバーとマンダリに同行することも許された。彼らは午後6時に二台の車でアシヤナを発ち、バーバーは2時間半に及ぶ公演を最後まで観賞した。(「胸躍る新たな呼び物」は、空中ワイヤー上のオートバイ演技だった。)バーバーがマハーバレーシュワルに戻ると、彼の隠遁のための準備が急ぎ進められた。パドリはアガ・カーンの平屋の敷地内に藁葺きの小屋を建てておいた。それは四方が竹の敷物で囲われており、バーバーが出入りしやすい入口が一つ設けられていた。バーバーは、その年予定していたアメリカ訪問にまつわるいくつかの困難についてエリザベスから電報を受け取っていた。そのためバーバーは今回はアメリカへの旅行という考えを取り下げ、代わりに6月に本部をハイデラバードへ移すことに決めた。次の電報がエリザベスに送られた。「バーバーの計画が変更されました。1951年7月にインドを発って西方へ向かう代わりに、彼は1952年2月に発つ予定です。心配せず、バーバーは来訪し一年間滞在することを望んでいるとお信じになり、ご安心ください。」
