第17章: 会合とダルシャン
1946年· ババ 52歳ページ 2,556 / 5,444
そこで翌日、ジーンとマーキーが出かけた。彼らは、もし新生活センターの五百エーカーを売却すれば、わずか百六十エーカーのこの土地を手に入れる余裕ができるだろうと考えた。彼らはまさにそうしたのである。その土地はメヘル・バーバーの大義のために購入され、メヘル・マウントと名づけられた。
しかしその後まもなく、マーキーとジーンの間に意見の食い違いが生じ、彼はニューヨークへ戻ってしまった。1ジーンはアグネスに自分と一緒にオハイへ引っ越してほしいと頼み、アグネスはまだメヘル・バーバーに帰依してはいなかったものの、これに同意した。
その地域に住んでいたスワミ・ヨガナンダは、1946年11月にその土地を訪れ、数時間をそこで過ごした。2彼はこう述べた。「ここは夢のような東洋の楽園だ。ここではオームの音を聞くために集中する必要さえない。」カリフォルニア、ニューヨーク、そしてマートル・ビーチのメヘル・バーバーの愛する者たちは、音なき音であるそのお方ご自身がアメリカの自分たちのセンターを訪れる時を熱心に待ち望んでいた——彼は近い将来にそうするだろうと示唆していたからである。
エルチはマハーバレーシュワルにあるアガ・カーンのバンガローを借りていた。1946年11月30日土曜日、「隠遁の場所」に七か月以上滞在した後、バーバーは男女のマンダリと共に列車でニランジャンプルを発った。一行にはもう一匹、スコティッシュ・テリアの子犬が加わっていた。バーバーがニランジャンプルで女性たちのために手に入れたもので、「ファイヤークラッカー(爆竹)」にちなんで「クラッカー」と名づけられていた。その晩、一行はデリーに到着し、バーバーと十人の女性たちはマハーバレーシュワルへの旅を再開する前にケキ・デサイの家へ夕食に行った。(男性たちは駅に残り、そこで夕食をとった。)荷物がおよそ百個あったため、サロシュのトラックがマンマド分岐駅で彼らを待っていた。彼らはそのまま車でマハーバレーシュワルへ向かい、12月2日の夕方に到着した。
アガ・カーンの宮殿フローレンス・ホールはたいへん大きく、広々とした敷地と馬小屋を備えていた。バーバーはマハーバレーシュワルにマスト・アシュラムを設けたいと望んでいたため、その建物は彼の目的にかなっていた。それが、彼が九人の働き手にインド各地からマストたちを連れて来るよう指示した理由であった。エルチは到着したバーバーとマンダリをマハーバレーシュワルで出迎え、馬小屋を「酒場」へと造り変える作業が始まった!そこは清掃され、竹のすだれで四十の小部屋に仕切られた。ヴィシュヌはバーバーのマストとの働きのために石鹸、皿、マグカップ、カフニ[長衣]、容器類を買い揃えた。バーバーはマスト・アシュラムのため、また女性たちの滞在のためにあらゆる手はずを整えた。
脚注
- 1.この頃にはジーン・アドリエルとマルコム・シュロスはすでに別れていた。
- 2.ヨガナンダはアメリカにセンターを設立した最初のインド人ヨギの一人であり、ベストセラーとなった『あるヨギの自叙伝』を著した。
