第14章: ブルーバスツアー
1939年· ババ 45歳ページ 2,061 / 5,444
そうでなければ、自分の子に対するあなたの態度は、ただ利己的な感情の結果にすぎないことを示しています。
同じ条件のもとで、道端の見知らぬ人の子に対するあなたの態度が、自分の子に対する態度と同じである場合にのみ、あなたの感情は真の愛の結果と呼ぶことができます。したがって、利己心が完全にないことこそ、純粋な愛の真の特徴であり、真実の試金石です。
バーバーは続いて、この純粋な愛、すなわち神聖な愛をどのように体験できるかを説明した。
純粋な愛は、誰かに無理に押しつけられるものではなく、また他人から奪い取れるものでもありません。それは、求道者が利己心を克服することに成功し、その内なる偽りの「私」が存在しなくなったときに得られます。
[この無私の段階は]到達するのが難しいと言うこともできますし、同時に、その状態に至るのは容易だと言うこともできます。これらの言葉は逆説的に思えるかもしれませんが、それでも真実です。
求道者がその状態に至ると決意しないかぎり、無私の状態に到達することは困難です。固い決意がなければ、低い自己に結びついた外的な執着は、克服するにはあまりにも強く、その結果、求道者は自分の目標に到達することが不可能だと感じます。
一方、強い意志を持つ求道者が、いかなる代価を払っても自分の目的を必ず達成するときっぱり決めるなら、その課題は容易になります。たとえば、あなたにとても気に入っている古いコートがあるとしましょう。心を決め、大胆にそれを脱いで、きっぱり捨てるまでは、あなたはそれを手放すことができません。このような大胆な決断の方法は、そうでなければ難しい課題を容易にします。
純粋な愛を体験するには、自己放棄が絶対に不可欠です。この放棄は、世俗のすべての関係や仕事を捨てて、森へ去らなければならないという意味ではありません。それどころか、それは世の中にとどまり、自分の義務を誠実に果たしながら、同時にあらゆる執着から離れていることを意味します。これは到達不可能な理想ではなく、もちろん求道者が真摯に、また大胆にそれに至ると決意するなら、容易に達成できる実際的な目標です。
人が非常に空腹なとき、食物への欲求を強く感じるように、同じく求道者が純粋な愛を体験したいと深く望むと、その切望を感じ、適切な時に、無私という目標に到達するために必要な指示と助けを導師から受けます。
